ノベルる

赤トンボ

カズホ作
赤トンボ  

第一部

  地球温暖化と言われるようになって久しく、真夏の暑さはひどくなるばかりだ。しかし冬はスキー場になるちくさ高原は標高1000m、日陰であれば8月とは思えない清清しさを感じた。
俊一はパラグライダーのバッグを背負い山を登り続けた。空に憧れ続けようやく一人前のパラグライダーインストラクターになったのだった。山頂でペットボトルのお茶を一口飲んだ後、無線機の状態を確かめパラグライダーを飛べる状態に広げた。丁度わずかな向かい風があり絶好のフライトコンディションと言えた。
「今のうちに・・・」
俊一は一気に斜面を駆け降りパラグライダーのキャノピーに風を入れた。冬は小回りのパラレルで滑り降りる急斜面だ。キャノピーが揚力を増しフッと体が宙に浮いた。素早く上昇気流に乗り順調に高度を上げて行った。下方には愛車のデリカスターワゴンが小さくなって行く。その側で少し足を引きずってこちらを見上げているのは父の一郎だ。終戦間際米軍の戦闘機の機銃掃射を左足に受け、以来ずっと松葉杖と義足の生活を続けてきたが子供の頃山登りが好きだった父は俊一がスキーやパラグライダーをしに山へ出かけるのが嬉しいらしく、年に何回かついてくるようになっていた。
今日の上昇気流は今までに無い強さだった。高度が上がりすぎるのを感じた俊一はパラグライダーのコントロールコードを引き気味にしたが、それでもどんどん高度は上がっていった。
「ちょっとマズイぞ。」
と思うや否や出し抜けに強い突風に煽られた。コントロールコードを引き気味にしているにかかわらずさらに高度が上がって行く。仲間が無線で心配そうに呼びかけてくる。気がつけば目前に巨大な積乱雲が迫っていた。
(なぜこんな低い高度に積乱雲が?)
「あんなものに突っ込んだらおしまいだ。」
積乱雲の中は猛烈な風雨が吹き荒れる。小型の飛行機なら分解してしまうこともある。しかしコントロールは完全に不能の状態だ。
「もうだめだ お父さん!」
叫んでも父のいた方角さえ分からない。パラグライダーが破れる音がし、猛烈に体が振られる。ハーネスが体に食い込み意識が遠のく。雷が真横に光り体を打ち抜かれたか気がしたがそこで記憶は消えた。 

  ふと気がつけばパラグライダーはまだ飛んでいた。ハーネスが1本切れパラグライダーは何箇所か破れていたが取り合えず「助かった」のだ。高度は随分と落ち民家が何軒か見えていた。
「どこまで流されたのだろう。」
下界の民家に見覚えは無かったが何人もの人が庭に出て上空を、俊一の方を見上げていた。収穫を終えたと思われる畑を選び俊一はコントロールコードをいっぱいに引いて着地した。人々が駆け寄って来た。
「さっきの米軍にやられたのか?」
「兵隊さんのかっこうしとらんが、戦闘機乗りなのか?」
意味の分からないことを矢継ぎ早に住民達は聞いて来た。
「ここはどこですか?」
と俊一は聞いた。
「千種の七野じゃ」
一番年配の男が答えた。
(七野?山に来る途中の村じゃないか・・・)
そういえば川の形に見覚えがあった。しかし最近建ったはずのコンビニや、見慣れた商店街の面影は無かった。上空には微かな飛行機雲が3本尾を引いておりその先頭には3機の飛行機が見えた。
「グラマンF6F戦闘機?」
飛行機の好きな俊一にはその機影に見覚えがあった。しかしこのあたりで航空ショーがある時期ではなく50年も前のアメリカ海軍の戦闘機が3機で観客もいない空を編隊飛行するなんて日本ではありえない。そしてそれを見上げる住民の姿。戦争映画でみた国民服を着た男が何人かいた。女はもんぺ姿で化粧もしていなかった。
(ここはいったいどこなんだ!)
俊一は不安で押しつぶされそうになりながらも何とか先程の年長の男に尋ねた。
「今日は何日ですか?それと、今年は何年でしたっけ。」
「兵隊さん頭でも撃たれたのかね?今日は8月5日 今は、昭和20年じゃろが」。
(昭和20年!終戦の年だ 8月5日なら明日原子爆弾が広島に落ちる!)。
「兵隊さんの落下傘ぼろぼろやねえ、よう助かったねえ。」
「とにかく原隊に復帰じゃの、姫路に材木を運ぶトラックが明日出るでそれに乗って行ったらええわ。」
「今夜は村長さんの所へ泊めてもろたらええわ。」
先程の年長の男が村長らしく、俊一は事態を把握出来ないまま村長の家に連れて行かれた。
夕食はあまごの焼き魚と味噌汁、タクアン、麦飯であったが、村長の家族にとってはご馳走のようであった。
「陸軍の航空元気酒飲むかね。」
村長の出してくれた酒は薬草の様な臭いが鼻につき、とても飲めるシロモノではなかったが、今の俊一は何でも良いから酒を飲みたい気分であった。
「硫黄島が落ちてからはアメリカの爆撃機がよう来るようになった。姫路も大分やられたらしい・・・」
村長の話しを聞くうちに俊一は一つの結論を出さざるを得なかった。
(タイムスリップ?まさか・・・)
山に残してきた父のこと、あの急激な上昇気流のこと、グラマンのことなどを考えながら、疲れきった体を俊一は薄い布団に横たえ無理やり眠ろうと試みた。浅い夢の中、父が呼んでいる景色が見えた。子供の父が米軍の戦闘機に足を撃たれる景色も見えた。雷が真横に走りハーネスが切れ、パラグライダーが破れる音も聞いた。

  蝉の鳴き声で眼が覚めた。状況は変わっておらず昭和20年にタイムスリップしたとしか思えず、胸が締め付けられるような不安感に押しつぶされそうであった。
「兵隊さん、あのトラックに乗せてもらいな。」
村長は麦飯の握り飯を持たせてくれた。青いトラックはまさしく戦中のものであろうと思われる、見たことも無い形のものであった。運転手は帽子を眼深にかぶり無口な男であった。デリカで快適に登ってきたはず舗装路は細いガタガタ道で疲れの残った体にこたえた。「あんた姫路の練兵場で降ろせばええか?」
無口が聞いて来た。
「え、ええ。」
(何て答えればいいんだ!これは夢だと言ってくれ!)
60年後には2時間で行ける道を4時間かかってようやく、いたるところ破壊された街にたどりついた。しかし焼け野原のなかにポツンと焼け残った姫路城を見てここが50年前の世界であることを思い知らされた。
「もうすぐやけど、降りるか?」
無口が聞いて来た。
「え、ええ。あなたはどこに行くのですか?」
「練兵場の向こうで材木降ろして、手柄の方へ行く・・」
手柄は俊一の住んでいるところだ。
「材木降ろすの手伝いますから手柄へ連れて行ってください!実家があるのです」
「では先に手柄に行くか。俺の実家も手柄やけどあんたを見るのは初めてやな・・・あんた名前は?」
「龍野 俊一です。」
「え!俺も龍野やが・・・」
無口が始めて顔をこちらに向けた。その顔に俊一は見覚えがあった。若い日の祖父のアルバムにそっくりな顔があったのを覚えていたのだ。
(おじいちゃん!?)
無口の眼にも驚きの色が浮んでいた。
「あんた・・・」
その時上空で金属性の唸る音が聞こえてきた。もうすぐ手柄であった。
「まずい!米軍の艦載機や。トラックを狙うとるから逃げろ!」
無口はトラックを止め、二人は左右に分かれて逃げた。俊一は小さな橋の下に隠れることができた。米軍の艦載機は昨日見たのと同じグラマンF6F戦闘機であった。6門の12.7ミリ機銃が火を噴きトラックは材木とともに炎上してしまった。急上昇した後再びグラマンは降下してきたがその軸線上に子供が駆け出していた。
「お父ちゃん!」
と泣きながら駆け出す子供、グラマンは射撃の体制に入っていた。俊一は夢中で飛び出し子供を突き倒しグラマンの射線から外した。6門の12.7ミリ機銃が再び火を噴き俊一と子供のすぐ近くに無数の土煙を上げていった。弾が切れたのか、子供を狙った後味が悪かったのかそのままグラマンは飛び去った。
「大丈夫か?」
子供は恐怖で真っ青になっていたが泣くこともなく「うん」頷いた。左足の靴が脱げ、その靴の真ん中を見事に機銃弾が貫通していた。
「一郎!」
振り向くと無口がいた。
「あんたの子供か?」
「そうや・・」
「お父ちゃん戦争もう行かんでもええんか?帰ってきてくれたんやな!」
子供の声に無口は
「そうや 帰ってきたんやで。」
と言いほほえんだ。無口は左手を少し負傷していた。陸軍のトラックが来て兵隊が何人か近づいて来た。
「あぶなかったな、けがはしとらんか。」
無口の傷を見て治療を薦めてくれたが無口は断った。いつのまにか帽子を目深にかぶっていた。
「あんた、龍野か!」
兵士は顔見知りらしかった。別の兵士が近寄ってきた。
「脱走兵の龍野中尉か?」
俊一にも別の兵士が来て尋ねた。
「お前、名前は?」
「龍野 俊一・・・」
と答えるしかなかった。
「お前ら仲間か、一緒に来い!」
一郎と呼ばれた少年を残し二人はトラックに乗せられた。
「お父ちゃん!」
少年が追いかけてきた。無口は黙って追いかけてくる少年を見つめていた。
「大丈夫や!お父さんはすぐ帰ってくる!戦争はあと10日で終わるんや!」
俊一は思わず叫んでいた。
「貴様!どういうことか聞かせてもらおうか!」
兵士に思い切り首根っこを捕まれ、俊一は引き倒された。

  広い錬兵場に懐かしい感じのする橙色の複葉機が1機駐機していた。
「あの飛行機は?」
と無口に尋ねた。
「赤トンボや。」
「赤トンボ?」
「海軍の九三式中間練習機や。橙色で翼も2枚あって赤トンボみたいやろ?なんでこんな所にあるんやろうな。故障か燃料切れでもおこして不時着したのかもしれん」
無口の言葉通り慣れない手つきでガソリンを補給している様子が伺えた。
「昔操縦したことがある。」
と無口が言った。
「パイロットなんですか?」
と俊一が尋ねると無口は黙って頷いた。一番奥の部屋へ二人は連れて行かれた。
  憲兵と思われる人物が二人を待ち構えていた「海軍大井航空隊 龍野 博史やな」
「そうだ。」
「お前は誰や。」
俊一に聞いてきた。やはり、
「龍野 俊一・・・」
と答えるしかなかった。
「知り合いか?」
「いや、トラックに乗せてくれというから乗せてやっただけだ」
「では〔戦争はあと10日で終わる〕とはどういうことか教えてもらおうか」
「・・・(何て答えれば良いんだ?)」
「答えんか!」
いきなり顔面を殴られ口の中が切れた。俊一は実の父にさえ殴られたことは無かった。
(こんなやつらが日本を戦争に追い込んだのか)
無性に腹が立ってきた。
「今日の朝信じられない程の大きな爆弾が広島に落ちているはずです。広島の街は壊滅し、同じ爆弾が9日の昼前に長崎に落ちます。それで日本は負けるのです」
無口の目がするどく俊一をにらみつけたが、それより早く再び俊一の顔面に憲兵のこぶしが炸裂し、俊一は床に倒れこんでしまった。
「貴様ら!アメリカのスパイか!憲兵本部に連行する。」
  二人は縄で縛られ、広い錬兵場をふたたび横切りトラックに乗せられた。
「お前さっきの話どこから仕入れた?アメリカもドイツも新型爆弾を必死になって開発しとる噂は俺も聞いた事があるが・・・」
無口が小さな声で聞いてきた。
「絶対信じられないと思いますが、私は50年後の世界から間違ってこの世界に紛れ込んでしまったようです。」
無口は何の反応も示さなかった。先ほどの憲兵はなかなか来なかった。俊一は日本は負けるが天皇陛下は安泰であること、日本を戦争へ導いた東条英輝らは戦犯として絞首刑になるがその数はあまり多くは無いこと。脱走兵は責任を問われないことなどを話して聞かせた。そして24年後には人類は月まで行ったことまで話してきかせた。
「あんたの話は面白い、生き延びたらこの目で見てみたいもんやな。」
俊一も全部信じてもらえるとは思っていなかったし自分自身未だにこの現状が信じられなかった。そこへ憲兵が戻ってきた。
「今朝広島に爆弾が落ちた。広島の街は壊滅した。お前らただじゃ済まされんぞ・・・」憲兵の目は殺気だっていた。
練習機は燃料の補給を終え懸命にエンジンの始動を試みていた。無口と俊一を乗せたトラックのエンジンもなかなか掛からなかった。無口は隙を見てしきりに手首を動かし縄を緩めようとしていた。俊一もそれに習った。練習機のエンジンはようやく回り始めたようだがトラックのエンジンはなかなか掛からず運転手の2等兵の額からは大粒の汗が流れ落ちていた。無口の縄は完全に緩んだようだが、エンジン始動がはかどらないことに気を取られている憲兵は気づかない。程なくして俊一の縄も緩んできた。トラックのエンジンがようやくかかったと思った瞬間無口の強烈なパンチが憲兵と二等兵の後頭部と側頭部を直撃した。
「走れ!」
無口は俊一の手をとり錬兵場を横切った。二人は練習機の方へかけ寄り、
「憲兵殿が大変です!」
と叫びながらトラックを指差した。何人かがトラックの方へ走っていったがパイロットは動かない。無口は、
「松山航空隊龍野中尉だ貴様は!」
とパイロットに詰め寄った。
「鈴鹿航空隊佐々木少尉です」
「憲兵殿より広島に新型爆弾が落ちたので偵察を命じられた。練習機を拝借したい」
「それは出来ません・・・」
と言いかけたパイロットの顎に鋭いパンチが炸裂し、そのまま卒倒してしまった。
「乗れ!」
練習機なので前後二人乗りである。俊一は旅客機以外の飛行機に乗るのは初めてであった。「待てー!」
憲兵が意識を取り戻したようだ。無口は車輪止めを外し軽がると操縦席に飛び込んだ。慣れた手つきでスロットルレバーを徐々に開き錬兵場の対角線上に機首を向けた。憲兵が走りながら腰の拳銃に手をかけるのが見えた。
「上手く離陸できれば良いが・・」
滑走できる距離は150メートルほどしかない。スロットルレバーを全開にし練習機は動き始めた。その時銃弾が俊一の耳元をかすめ錬兵所の太いケヤキの木に当たった。憲兵は2発目を装てんしながら尚駆けて来る。練習機は速度を上げ憲兵を引き離しはじめた。憲兵は立ち止まり2発目、3発目を続けて発射した。3発めが無口の右肩を掠めたようだが練習機はそのまま滑走を続けた。無口のシャツが右肩からが徐々に血で染まって行く。
「大丈夫ですか!」
大声で俊一は叫ぶが無口は唇をかみ締めたまま操縦桿を握り締めている。4発目が翼の支柱に当たった時練習機は宙に浮いた。錬兵場のケヤキを辛うじて飛び越え無口は離陸に成功した。錬兵場の広場では50人ほどの兵士と南部14年式拳銃を握り締めたままの憲兵が空を見上げていた。

「大丈夫ですか?」
再び俊一は無口に言った。無口は黙って頷いたが右の背中は真っ赤に染まっていた。
「俺はラバウルにいた。」
伝声管を通じて無口の声が聞こえてきた。ラバウルとは最後まで占領されなかった南方の航空基地だった。
「戦闘機に乗っていたんですか?」
「そうだ。」
「何機落とされましたか?」
「いちいち数えとらん。」
聞いてはいけないことだったのだろうか?
「20機くらいまでは覚えとる。共同撃墜も多いからな、数えるのは止めた。」
5機以上撃墜したパイロトはエースと呼ばれ尊敬を集めるのだが、終戦直前の今、そのような優秀な技量を持ったパイロットはもうほとんどの残っていなかった。
「4月からは特攻機の護衛をするようになった。」
「日本はもうとっくに負けとる。それでも馬鹿な上層部は特攻を止めようとせん。俺にも敵艦にブチ当たる順番が廻ってきたけど途中でエンジンが故障してな。何とか落下傘降下したら山中に降りてしもうた。何日もかけて原隊に戻ろうとしたけど、脱走兵扱いになっていることを途中で知った。もうどうでも良くなってしもうて。気が付けばあの村でトラックの運転手をすることになっとった。村の人も脱走兵だと気が付いていたと思うが密告する人は居らんかった。迷惑がかかる前に村を去るつもりやった。」
無口はもう無口ではなく精一杯俊一に語りかけていた。おそらく最後に子供の顔をひと目見たかったのだろう。
「あんたウチの息子によう似とる。さっきは助けてくれてありがとう。」
祖父の若かった頃の写真に良く似た無口の背中を俊一は見つめるだけで言葉が出てこなかった。
「尻の下のザブトンみないなやつ落下傘やから紐を肩にかけておけ。あんた落下傘で降りてきたからやりかたは分かるやろ。陸軍のトラックの燃料を入れやがったからいつエンジンが止まるかわからんからな。ほら千種の山が見えてきた。」
南側の空から千種の山を見下ろしたことがなかったので俊一にはどれがそうなのか分からなかったが、川の上流の山だろうと検討をつけた。
「これからどうするんですか?」
「わからん。あんたを安全な所に下ろしてあとはなるようになれというところやな。あんたの話しやったらあと10日で戦争も終わるんやし気楽なもんや。」
「でも怪我の手当てをしないと。」
「タマは肩の肉だけ削って貫通しとる。こんなケガ見た目ほどひどいもんやない。」
出血はようやく止まったのか無口のシャツは乾き始めていた。俊一はようやく落ち着きを取り戻し操縦席や周りの景色を観察しはじめた時、出し抜けに左の翼に3つの穴が開いた。と同時に大きな影が轟音と供に真上から真下に駆け抜けた。

「グラマンや!また来やがった。」
一旦下方に降下したグラマンは急上昇にうつり練習機の背後に回りこもうとしていた。
「また来るぞ。機銃の火が出るのが見えたら叫べ!」
恐怖で俊一は声が出なかったが、
「ハイ・・」
と辛うじて答えた。グラマンは右旋回して練習機の背後についた。俊一は伝声管をにぎり締めた。グラマンの翼から6つの火花が見えた。
「撃ちました!」
今度は練習機の右翼に2発命中したが無口は練習機をパラグライダーのようにクルリと旋回させグラマンをやり過ごした。
「グラマンは重いからな、急旋回が苦手や。」
次の攻撃までに10秒ほどあるが無口はどうするのか?
「練習機と戦闘機やったら勝負にならん。そのうちやられる。あんたは次の攻撃のあと飛び降りるんや!」
再びグラマンが右後方から回り込んできた。今度は俊一ももう少し冷静になれた 。再びグラマンの翼が光った「来た!」の叫び声とともに練習機は左に急旋回し今度は1発も当たらなかった。
「いいぞ!今のうちに飛び降りろ!」
しかしせまいコックピットから出るのはそう簡単なことでは無かった。
「早くしろ!」
グラマンはまたしても右後方につこうとしていた。チカチカとグラマンの翼が光る。
「撃った!」
カン!カン!と2発ほどがエンジンに命中した。黒煙を吹き始める練習機を無口は急上昇させた。
「もうあかん!あそこの雲に突っ込むしかない!」
前方に大きな積乱雲が見えた。
「積乱雲に突っ込んだら分解しますよ!」
俊一が叫ぶ。
「わかっとる。でももう逃げられん。落下傘のフックを飛行機につないでおけ。振り落とされたら自動的に開いてくれる。」
グラマンも急上昇してきた積乱雲まで500メートル。グラマンが接近してくる。200メートル、100メートル。翼がチカチカと光る。補助翼と右主翼に次々と弾痕ができて行く。突然真っ白は空気につつまれたかと思うと猛烈に練習機は揺さぶられた。雷鳴が轟き稲光が走る。
「飛び降りろ!」
遠のく意識の中で無口の叫び声が聞こえた。

  パラグライダーのコントロールコードを俊一は無意識に探していた。しかし手になじんだコントロールコードはなかなか探すことができなかった。俊一がぶら下がっているのは旧式な白い落下傘だった。下方には千種の町が見えていた。安全な所に着地したかったが思うように落下傘をコントロールすることが出来ず川のなかに降りてしまった。水量は膝くらいしかなく溺れる心配はなかったが、濡れた服を着たまま落下傘を外すのが何とも難しく感じた。
(無口はどうなった?)
俊一は赤味を増しつつある空を見上げた。
川上の雑木林を抜けようやく県道に出ることができた。通りかかった軽トラックに拾ってもらい、スキー場まで連れて行ってもらった。どうやらもとの時代に戻れたようだが疲れ切った体と頭は軽トラックの持ち主と多くを語ることのできる状態ではなかった。
駐車場には何事もなかったかのように愛車が停まっていた。
(父は?)
足の不自由な父はあまり遠くに行けないはずだが辺りに父の姿は無かった。
「おーい。」
父の声がした。上空から青いパラグライダーが舞い降りてきて俊一の目の前に見事に降り立った。
「おとうさん?」
「どうした?幽霊でも見とるみたいやぞ。」
「足は大丈夫?」
「足?」
「戦争中に左足撃たれたのとちがうの?」
「撃たれたよ左足の靴がな。ホンマ危なかったけどな、知らんお兄さんが突き飛ばしてくれて何とか助かった。何度も話したやろ?」
「もしかしてその時おじいちゃんも一緒やった?」父は驚きの顔を浮かべた。
「お前には話してないけどな、おじいちゃんは脱走兵やったかもしれんのや。お父さんを助けてくれた人と一緒に憲兵の所に連れて行かれたんや。そのまま帰ってきてない」
「お父さん、おじいちゃんは海軍のパイロットやった?ラバウルに行った?」
父はさらに驚きの表情を見せた。
「そうや終戦の直前には特攻隊に選ばれたけど逃げたという噂や・・・」
「お父さん、おじいちゃんは逃げたんやないで、きっとエンジンが故障して不時着して帰れんようになっただけや。」
「お父さん、おじいちゃんどんな人やった?」
「寡黙な人やったけど空が好きで、お父さんには優しい人やったな。」
夢から覚めたのか、夢の続きを見ているのか俊一の混乱は収まらなかったが、さっきまでの出来事が急速に遠い過去の記憶になって行くような感覚を覚えた。俊一は大きく息を吸い千種の山を見上げた。夕焼けを背に無数の赤とんぼがキラキラと羽を光らせて舞っていた。




第二部

  龍野はただひたすらに操縦桿を握り締めていた。
(分解する!)。
グラマンの攻撃を振り切るため積乱雲に突入した赤トンボは乱高下を繰り返し高度を下げていった。雨粒と雹がむき出しの顔を打ち、激しく揺れる機体をコントロールするのは全く不可能であった。しかし突然辺りが明るくなり機体の振動が収まった。真夏の太陽が左翼に照りつけていた。雲の中からペッと吐き出されたような感じであった。どうやら空中分解だけは免れたようだが、後ろの座席に乗っていた青年の姿は無かった。
(無事に降下できただろうか?)
眼下には海が広がっていた。
(ここはどこだろう?)
コンパスが狂っていなければ南南西に向かって進んでいる。小豆島だ。島影に見覚えがある。燃料はまだ充分にあり煙を吹いていたエンジンも何とか回っている。破風張りの機体はあちこち破れており、よくもまあ分解しなかったものだ。
(俺にまだ生きろということなのか?)
あの青年と出会って龍野はなぜか心が軽くなった。
(本当に戦争はあと10日で終わるのだろうか?しかし広島に新型爆弾が落ちたことをあの青年は言い当てたではないか。)
(広島!そうだ広島に行ってみよう。)
もう岡山の上空まで来ており、広島はそれほど遠くでは無かった。グラマンに出くわさないよう薄い雲に出たり入ったりしながら西へ飛び続け、やがて徐々に高度を下げていった。

  煙が上がっている!前方にあきらかに爆撃を受けたと思われる光景が広がってきた。
(何てことだ!)
龍野は爆撃機の護衛を何度も経験し、爆撃を受けた街の上空も何度も飛んだことがあるが、このような光景は初めてであった。街全体が焼き尽くされ草も木も見当たらない。まだ幾筋もの煙が立ち昇り、焼け残った建物などほとんど無かった。川にはたくさんの流木が流れていたが、少し様子が変だ。龍野はさらに高度を下げた。流木と思ったものは皆人間であった。おびただしい人間が流木のように川を流れ、川辺にも無数の人間が倒れていた。焼けただれ水を求めて川まで来て、そこで力尽きたのだろう。
(こんなことってあるのか!日本の負はもうとっくに確定しているではないか!ここまでする必要があるのか!これではただのの大量虐殺ではないか!)
既に日本の負けは誰が見ても決定的で、政府や軍部の良識派が必死になって戦争を終えようと様々な外交交渉を展開していた。戦争継続の意思は無いことは連合国に示しているはずであった。
(広島は新型爆弾の実験場にされただけではないか!)

  龍野はさらに高度を下げた。死んでいるのは皆兵士ではなく普通に暮らしている民間人ばかりであった。倒れたまま手足だけが動いている者もいた。歩いている者もいるがどこへ行こうとしているのか?家族をさがしているのか?ほとんど裸の状態で子供をかかえて彷徨う母親もいた。一人の少女が龍野の目にとまった。焼け落ちてしまった家の前に悄然と立ち尽くすおかっぱ頭の少女。ただ一人生き残ったのだろうか?龍野は着陸できそうな所を探した。右手に比較的広い道があり道端の電柱などは皆焼けてしまっているのでなんとか着陸できそうであった。地上に降り立って見ると建物や人間の焼ける異様な臭いが鼻を付いた。その残酷さは際立ち、とても正視することは出来ない有様であった。
少女の目の前には3体の炭化した亡骸が並べられていた。
「大丈夫か・・」
龍野はかける言葉が見つからなかった。
「家の人なのか?」
3体の亡骸を見て少女に聞いた。少女は黙って頷いた。
「行くところはあるのか?」
少女は黙って首を振った。
「名前は?」
「・・・」
「おじちゃんと一緒に来るか?」
その時何人もの人々が近づいて来るのがわかった。
「助けてください・・その飛行機に子供を乗せて下さい」
全身にやけどを負った母親が死んだ子供を龍野に差し出そうとしていた。その後ろにも何人もの人間が助けを求めて続いていた。
言いようの無い恐怖に龍野は襲われ、少女を抱え飛行機の前部座席に乗せた。
「この飛行機は二人しか乗れない!必ず助けを寄こすから道を空けてくれ!」
プロペラを回してエンジンをかけ素早く後部座席に乗り込み風上に向かって離陸した。
龍野の目に涙があふれてきた。
「すまん、とてもみんな助けることはできない、すまん」
集まった人々は赤トンボをただ見上げていた。
「すまん、すまん」
何度も、何度も龍野は詫びていた。
「サキ」
伝声管から少女の声が聞こえた。
「え?」
伝声管を握り締め聞き返した。
「サキ、名前、サキ。」
「サキか、幾つや?」
「8歳 ・・ひこうきどこ行くの・・」
「ごめんな おじちゃんもわからんのや。」
しかし龍野は松山に行こうと決めていた。

  松山は龍野が前にいた航空隊があった。しかし実力はあるが精神主義に同調しようとしない彼は上官に疎まれていた。2ヶ月前大井航空隊に転属を命じられたが、行って見るとそこは練習機だけで特攻隊を編成した航空隊であった。25番(250kg爆弾)を二つも抱えた練習機「白菊」は時速160kmほどでしか飛べず、撃ち落とされに行くようなものだった。それでも6月25日の特攻に10名の仲間と供に勇躍飛び立った。しかし離陸後間もなくエンジン不調に陥ってしまったのだった。落下傘降下時に足を挫き山中を何日も飲まず食わずで彷徨い、気が付けば見知らぬ民家に寝かされていた。原隊へ連絡しようとしたが、脱走兵扱いになっていることを教えられた。
(脱走兵?行方不明じゃないのか!)
松山航空隊の上官の存在が龍野の脳裏を掠めたが山中を彷徨っている間のことはどうしようも無かった。松山航空隊の仲間や大井航空隊の仲間が思い出されたが龍野にはもはや絶望感しかなかった。脱走兵に将来は無い。せめて息子の顔を見て死のうと郷里へ向かう途中であの青年に出会ったのであった。

  すでに夕暮れが近く、橙色の機体はより赤く染まっていた。燃料の余裕は無いため出力を上げることは出来ない。しかし、悪天候の時にもカンと巧みな航法で何度も帰還に成功したことのある龍野は何とか松山にたどり付く自信があった。前席に乗せている少女は疲れて寝てしまったようであった。やがて眼下に松山航空隊の滑走路と幾つもの俺体壕
が見えてきた。高度を下げると下界はもう薄暗く基地上空を1度旋回して目を慣らし、使い慣れた滑走路に滑り込んだ。
  時ならぬ93式中錬の着陸に慌てて整備兵が飛び出してきた。
「中尉殿!」
龍野の機付け整備兵であった近藤伍長が走ってきた。
「元気だったか」
「ハイ、中尉殿は・・・」
と言いかけて近藤は口を噤んだ。
「気を使うな、脱走兵のご帰還だ。」
「その子は?・・・」
「広島で拾ってきた。」
「広島!新型爆弾が落ちたらしいという噂ですが本当ですか?」
「ああ、ひどいもんだ。街一つ燃え尽きてしまった。川には無数の焼死体がうかんでいたよ。この子は家族全員を無くした。」
サキを飛行機から下ろしさらに龍野は続けた。
「近藤、お前の実家はこのあたりだったな。この子を預かってもらえんか?」
「いいですけど、上官殿が来られますのでひとまずこちらへ。」
と言って俺体壕の方へ連れて行った。
操縦士も集まってきたが大半は見たことの無い顔であった。半年前は精強を誇った松山の航空隊だがもはや熟練操縦士の大半は戦死しており、残った部隊も九州へ移動していた。上官の石田少佐が来た。プライドの高い石田少佐は龍野が松山に着任した時模擬空中戦で完敗して以来龍野をひどく嫌っていた。
「脱走兵殿の御帰還か、今朝姫路の憲兵隊から飛行機を奪って逃走したと連絡があったがまさか、松山に戻ってくるとは思わなかったな。」
石田は皮肉な笑みを浮かべたまま龍野を睨んだ。
「言い訳はしません。しかしずいぶん早く脱走兵にされてしまったようですね。」
龍野も睨み返した。
「大井航空隊にはお前の素行は詳細に報告しておいたからな、直ぐに脱走したと思ったんだろうよ。心配しなくとも明日にでも憲兵に引き渡してやる。」
「営倉に放り込んでおけ!」
と当番兵に命じたが、龍野は自ら進んで営倉まで歩いていった。

  営倉の中で龍野は焼け焦げた広島の街を思った。川に浮いていた大量の焼死体、炭化した人間、親を亡くした子供、死んだ子供を抱える母親。
「許せない・・・」
龍野は自分も含め、多くのものが許せなかった。
「龍野。」
振り向くと同期の花村大尉と機付け整備兵の近藤がいた。
「花村生きていたのか!」
「ああ俺は不死身だよ。」
近藤は握り飯と、今では貴重な「光」を差し入れてくれた。
「営倉に煙草なんか持ってきたらお前も営倉行きになるぞ」
「そうしたら中尉殿と一緒にたばこが吸えますね」
龍野の気持ちを和ませようとする近藤の軽口が龍野は嬉しかった。
「赤トンボは直せそうか?」
「明日の朝までには飛べるようにしておきます。」
と近藤ははっきり答えてくれた。
「花村、話がある。」
近藤は察して席を外した。
龍野は千種の山に突然落下傘降下してきた青年のこと、そして今日見た広島の街のことを花村に話して聞かせた。
「おれはもう一つの新型爆弾が落とされるのを何としても止めたい。」
「どうすればいいんだ?」
「俺を逃がしてくれ。それだけでいい。」
花村の顔は曇った。脱走兵を逃がしたとなると重罪だ。
「冗談さ、戦争はあと9日で終わる。明日憲兵隊に連れて行かれても8日間牢屋にはいっていればそれで済む。」
と言って龍野は珍しく笑った。2人は互いの思いがよく分かっていた。

  翌朝早く石田少佐は2人の憲兵とともに営倉に入ってきたが龍野の牢の中で番兵と近藤整備伍長が倒れていた。
「龍野はどうした!」
石田の怒鳴り声で近藤が意識を取り戻した(ように見せた)。頭には自分で作った大きなコブが出来ていた。
「龍野中尉殿に差し入れを持ってきたのですが、具合が悪そうだったので中に入ったところ二人ともいきなり後ろから殴られました。」
「どこに行った!」
石田は顔を真っ赤にして憲兵と供に営倉から出て行った。
近藤は一晩の間に「天風」11型300馬力の93式中型練習機のエンジンを2ヶ月前不時着した水上機型の93式中練試作機に積んであった「天風」二一型480馬力に換装していた。破れた破風は張りなおしてあり、出力の向上に併せて方々に補強が施されおよそのバランスは取ってあるとのことだった。
「整備する機体は少なくなりましたが、整備兵だけはいっぱい居りますから・・」
と事も無げに言っていたが大変な作業であったはずだ。トラックがこちらに向かってくるようだ。案の定石田少佐と憲兵が乗っている。すでに近藤の手によって暖機を済ませてある赤トンボのエンジンはすぐにかかった。車輪止めを外し、座席に乗り込みエンジンの回転を徐々に上げていった。俺体壕の外に機体を進め振り向くと100メートルほど後ろにトラックは迫っていた。
「止まれ!」
エンジンとプロペラの風音にもかかわらず石田少佐の怒鳴り声が聞こえてきた。
龍野はスロットルを少し閉じ機体の動きを止めた。トラックから石田と憲兵が降りこちらに駆け出してきた。
「少佐殿、2日後長崎に新型爆弾が落ちるとの情報があります。阻止せねばなりませんので離陸をご許可下さい!」
龍野は振り向いて叫んだ。
「俺も知らない情報をなぜ貴様が知っている!第一、脱走兵が軍務に口出しする資格など無い!降りろ!」
慣れない手つきで拳銃を構えた。
「ご許可願います!」
龍野はブレーキを掛けたままスロットルを全開にし、エンジン出力を一気に上げ飛行機の尾部をトラックの方へ向けた。換装したばかりの星型9気筒480馬力のエンジンが猛烈な風を巻き置きし少佐石田と憲兵がよろめく。砂塵が目に入り思うように拳銃を発砲することも出来ない。赤トンボは風上に向かって一気に加速した。揚力の大きい機体は直ぐに離陸し高度を上げて行った。石田達が小さくなって行く。もはやあの怒鳴り声は聞こえなかった。龍野は声を出して笑った。

「お前が声を上げて笑うなんて珍しいな。」
伝声管から花村の声が聞こえてきた。ギョッとして振向くと花村が後部座席からひょっこり顔を出した。
「バカ、降りろ。」
「落下傘はちゃんとある。俺は降りたいときに降りるよ。それよりこれからどうするんだ?爆弾が落ちるのは二日後だろう。」
「四国に何箇所か造成中の滑走路がある。大井空で教えてもらった。」
「それにしても脱走兵扱いのお前が降りるとマズイことが起こるかもしれんだろ?俺が操縦する。お前は俺の機付整備兵ということでどうだ?ホラ近藤の上着も借りてきてある。」
「近藤は巻き込みたくない。」
「分かっている。あいつには何も言っていないし言うつもりも無い。」
花村は万事につけ用意周到な男であった。龍野同様に精神主義一辺倒の上官は毛嫌いしていたが、社交的且つ臨機応変な応対が出来るので龍野のように疎まれることはなかった。

  近藤の入念な整備が行き届き、海軍のオクタン価の高い燃料を入れた赤トンボは昨日より遥かに快調であった。換装したエンジンのせいか少し機首が重いようだが出力の向上したエンジンは九三式中錬を想像以上に力強い飛行機に生まれ変わらせていた。平和な空をこうやって息子と飛んでみたいと思った。松山から直線距離で南に80kmほど飛んだ山中の台地に龍野と花村は降り立った。とても飛行場と呼べるようなものではなかったが着陸速度が遅く足の丈夫な九三式中錬は花村の操縦で難なく着陸できた。当直の将校は昨日から出掛けたままで、残っているのは軍属と工事関係者だけであった。当然飛行機など一機もなかったが龍野と花村にとっては都合が良かった。飛行機を出来るだけ目立たぬよう林の方へ移動させ、龍野と花村は入念に作戦を検討した。千種の山で出会った青年の話によると8月9日の昼前に米軍のB29が新型爆弾を落とす。第一目標は小倉、次に福岡、佐世保であったが天候悪化による視界不良のため目的地を長崎に変更した。爆弾は落下の衝撃で爆発するのではなく落下傘にぶら下げ上空で爆発させ地表を焼き尽くす仕組みらしい。最も合理的な・u檮lえ方は九州や松山に残っている雷電や紫電改といった火力の大きい戦闘機をできるだけ上げて迎撃するというもので、来襲する時刻も場所も概ね分かっており理想的な作戦の展開が期待できた。ただ過給器の良いB29は高度10000m以上の空域を悠然と飛行できるのに対して日本の戦闘機は雷電や紫電改のような新鋭機と言えども10000m以上の高度では飛んでいるのがやっとという状態であり、待ち伏せして急降下し一撃で仕留める必要があった。しかし最大の難点は脱走兵の龍野の情報をもとに作戦を立案し命令を発令できる可能性など無いということであった。また、既に国内に残存する戦闘機は米軍の本土上陸作戦に備えて温存する方針が採られており簡単に出せる命令でもなかった。やはり自分たちでやるしかない。B29への体当たりも有効であるが赤トンボの上昇限度は7000メートルほどで、B29の飛ぶ高度まで上がることは不可能である。いまひとつの作戦は爆弾の効果を減弱させることであった。3式爆弾等で落下傘を焼き尽くし空で爆発する前に地上に落下させる方法もあるかと思われたが起爆装置は大気圧により作動する可能性が高くその場合は規帖w)閧フ高度になると同じように爆発してしまうと思われた。龍野と花村ぁw)ヘ議論を・uテねたが名案が浮かばないまま8月7日の夜は更けていった。

  飛行機の爆音で花村は目を覚ました。未だ薄暗かったがわずかな雲に映える朝焼けが美しかった。この空向うのどこかで今まさに新型爆弾が準備されているのだろうか。龍野は既に起床したようであった。花村が飛行服に着替えていると、軍属が2名慌てて兵舎に飛び込んできた。
「大尉殿!同行の整備伍長殿が今、離陸されました!」
「何!」
兵舎とはおよそ言いがたい木造小屋から花村は飛び出した。93式中練は既に豆粒のようになっていたが旋回しこちらに向かってきた。基地の上で再び大きく旋回し翼を左右に振った。赤トンボの別れの挨拶だった。
(どうするつもりだ龍野!どこへ行くつもりなんだ!)
龍野のベッドの上にはきちんと畳まれた寝具の上に2通の手紙が置いてあった。一通は花村へ、もう一通は近藤に宛てであった。花村への手紙には今まで世話になったことへの礼と花村にこれからして欲しい事が書かれていた。そして大井航空隊に残っているはずの自分の私物は家族へ、現金は近藤の実家へ送りサキの養育費に充てて欲しい旨のことが簡潔に書かれていた。何とかして長崎に行かなければならなかった。しかし電話はなかなか通じず、名ばかりの航空基地の空を見上げるしかなかった。龍野は花村をこれ以上巻き込みたくなかった。あと8日で戦争は終わる。花村のような人間こそ戦後の日本の復興に必要なのだ。息子によく似たあの青年の言ったことを龍野は今や全く疑っていなかった。そして忘れかけていた自分の軍人としての意識が充実して行くのを感じた。行く先はもう決めてあった。

  龍野が目指したのは四国の造成基地から150キロほど西の九州福岡の陸軍太刀洗基地であった。もともと海軍と陸軍は相性が悪く敗戦間際の今、陸軍の基地であれば海軍の脱走兵の情報が行き届いている可能性が少ないと思ったからであった。また、かっては東洋一と呼ばれた西日本随一の航空基地であったが昭和20年3月末の大空襲で大きな被害を受けておりもはや基地と機能していない可能性が高く龍野には都合がよかった。一晩機体と体を休める場所があればいいのだ。長崎はそこからさらに西へ100キロ飛べば良い。
眼下に見えてきた太刀洗基地は設備を中心に爆撃により著しく破壊されていたが、広大な基地であり、足の丈夫な93式中錬であれば着陸場所には困らなかった。滑走路の隅の木立ちに機体を置き、異常がないか点検しているとピストらしき建物の方角から将校が1人やってきた。
「海軍が何用か!」
と聞いてきたが、発動機不調のため点検している旨を伝えるとそんまま立ち去った。一通りの点検を終え龍野は飛行機の車輪にもたれて近藤が持たせてくれた乾パンを食べ、そのまま眠ってしまった。昨日は殆ど一睡もしていなかった。ここ数日の疲れがたまっていたのか気が付けば夕刻であった。俺体壕の向こうに沈む夕日を見るながら龍野は息子の一郎を思った。憲兵に連れて行かれる姿は見せたくなかったが、息子の無事を確認することはできた。「サキ」と言ったあの少女はどうしているだろう。広島のあの惨状を思い出すとあと1週間で戦争は終わるという話は信じがたいものになってしまうのだった。そして言いようの無い敵愾心が沸き起こり様々な思いが頭の中を交錯した。今夜も眠れぬ一夜になりそうであった。

  8月9日の夜が明けた。残しておいた乾パンを食べ水筒の水を飲み干した。新型爆弾の投下は昼前らしい。仮に11時から11時半の間とする。その前に一仕事するのに20分、ここから長崎まで40分とすると午前10時前にここを起つと間に合うだろう。燃料は充分に残っておりあと400キロくらいは充分飛べそうだ。一通り点検を終え近藤の整備服を脱ぎ飛行服に着替えた。エンジンの試運転を始めた時、軍用のトラックがこちらに向かって来るのが見えた。憲兵隊に違い無かった。迷わず操縦席に飛び乗りエンジンの回転を上げていった。トラックは飛行機の風上に向かい針路を阻もうとしていた。石田少佐のような抜け作では無いらしい。止むをえず離陸に不利な風下に向かって滑走を開始したが換装したエンジンのおかげでぐんぐんと速力が上がってゆく。一式戦の残骸に突っ込む手前で93式中錬は8月9日の空へ飛び立っていった。時計の針はもうすぐ9時をさそうとしていた。

  龍野は進路を真西にとった。目標は長崎の海軍大村基地。そこには松山にいた海軍最強と言われる343航空隊がいるはずであった。しかし大村基地に行く前に福岡、佐世保の方角に進路を取った。新型爆弾の第一目標地だ。高度を徐々に上げてゆく。真夏の暑気がみるみる失せ、爽やかな冷気に機体は包まれた。4000メートルで酸素マスクを付けた。乾いた酸素の臭いが鼻を付く。気温は5度。風防の無い操縦席に寒気が吹き込む。6000メートルから上に昇るには随分時間がかかる。93式中錬でこのような高空に上がるのは初めてだ。7000メートル、7500メートル、赤トンボの上昇限度だ。しかし換装したエンジンのおかげでもう少し上がれそうであった。すでに福岡の上空に達しているはずであるがあまりにも高く飛んでいるため地上の様子がわからない。雲も多くB29が目標を変更したのも頷けた。高度8000メートル。龍野は酸素マスクの中で歯を震わせていた。
(待つしかない。)
龍野は高度8000メートルでゆっくりと旋回を開始した。少しでも気を抜くと旋回操作の度に高度が下がる。歯を震わせながら上空を監視する。時計は10時を指そうとしている。その時上空に小さく銀色に光る機体を発見した。エンジンが4つ、B29に間違いない。高度は10000メートルをはるかに越えているようであった。とても赤トンボでは上がれないがこれから長崎に向かうことは間違いない。目標を確認し龍野は赤トンボを時速250kmで一気に降下させ南西に進路を取った。

  20分で大村基地上空に達すると龍野は軋む機体をさらに急降下させた。大村基地の滑走路には10機ほどの柴電改が並んで配置されていた。龍野は93式中錬に1丁だけ装備されている7.7ミリ訓練用機銃の銃握を握った。地上スレスレまで舞い降り、柴電改の列線の鼻先に精密に機銃弾を打ち込む。飛行機にも人間にも当てるつもりはないが、地上の整備兵が一斉に伏せる。
(もう一行過するか?)
と思い上昇反転に移ろうとした時早くも滑走を始めた柴電改が2機認められた。あまりにも早い反応だ。343航空隊の優秀さには舌を巻くしかなかった。
今は一目散に逃げる、上昇するしかない。しかし93式中錬の最高速度は通常220キロほどしか出ない。換装したエンジンのおかげで280キロ近くは出たが、海軍の最新鋭機柴電改の最高速度は590キロ以上だ。離陸した柴電改があっという間に追いついてきた。B29の向かう空域まで柴電改を導くことが狙いであったがその前に撃ち落とされかねない。柴電改は赤トンボの右と左から迫ってきており、やがて完全に赤トンボを射程圏内にいれてしまった。龍野は観念した。しかし敵意の無いことを示すために一応翼を左右にバンクさせた。すると2機の柴電改もバンクを返して来た。振り返ってよく見ると操縦席のパイロットは笑っていた。かって龍野の部下であった新島上飛曹と竹藤上飛曹であった。

  龍野は四国の造成基地を出る時、花村に手紙で9日朝大村基地を不審な93式中錬が襲撃する可能性があるので、見つけ次第直ちに迎撃に上がるよう大村基地の同期生か後輩に連絡しておくよう頼んでいたのだった。花村のことだから「その機体は龍野中尉が操縦している。」くらいのことを言っておいたのだろう。新島上飛曹と竹藤上飛曹は龍野が1から空中戦を教えた部下で龍野のことをよく慕っていた。これから何をすればよいかもよく理解しているようだ。それにしても赤トンボの操縦席では龍野が最高速度を維持しながら上昇するのに苦労しているというのに、後輩達の柴電改は余裕で巡航しておりその性能差が少し恨めしかった。再び高度は6000メートルを越え、柴電改の後輩達も既に酸素マスクをつけていた。既に長崎市上空に達しており龍野は目を凝らした。
(いた!)
先ほど見たB29に間違いない。高度はやはり12000メートル付近を飛んでいるようだ。左右の戦闘機に分かるようにB29を指差した。後輩達はニッコリと頷きスロットルレバーを叩いた。2000馬力級のエンジンが唸りを上げ一気に赤トンボを置き去りにして行く。龍野も成り行きを見届けるため上昇を続けた。8000メートルまで上がった。10000メートル付近で柴電改も必死にB29を追撃しようとしていた。しかし柴電改と言えども高高度での性能はB29に及ばず付いて行くのが精一杯のようだ。
(それでもいい、とにかく海上に追い払ってくれ!)
後輩達は時折20ミリ機関砲を発射してB29を威嚇し、どんどん北西の海上に押しやっていった。やがて燃料が乏しくなったのかB29は速力をあげ南南西の方角に飛び去ってしまった。
(よし!これでいい、これでいい。)
花村と後輩達のおかげで何とか目的を達成することが出来そうだ。新島上飛曹と竹藤上飛曹が龍野の機体の真横に付け酸素マスクを外して白い歯を見せて笑っている。龍野も手を振った。後輩達も手をふりながら大村基地へ帰っていった。

  後輩達を見送ったあとも龍野は高度6000メートル付近に留まり、飛び去ったB29を監視し続けたがもはや帰ってくる気配は無さそうだった。時計は10時50分を指していたB29はもはや金星ほどの小さな点でしかない。目を凝らしてないとその点も見失いそうだ。
(もう大丈夫。)
龍野はゆっくりと機首を反転させた。その時長崎上空に何か別の点が煌くのが見えた。不吉な予感に龍野は一瞬凍りついた。スロットルレバーを叩き最高速度で点の煌いた方向へ飛んだ。点はやがて形をなし、その姿を龍野は認めた。B29だった。
「もう一機いたのか!」
高度をなんとか7000メートル近くまで上げた。今度のB29は先ほどよりも低い9000メートル付近の高度を飛んでいたが、無論赤トンボの上がれる高度では無い。1000メートルほど下を飛んでいる小さな複葉機など何の脅威でもないのであろうB29は悠然と飛んでいたが、突然向きを変え始めた。眼下には見方の零式艦上戦闘機が10機程上昇して来るのが見えた。
「早く、早く!」
龍野の気は急いたが零戦は中々高度が上がらない。ようやく龍野の高度まで上がって来た零戦が何機か攻撃態勢に入ろうとしていた。その時、出し抜けに龍野の機の周りを機関砲の赤い火柱が駆け抜けた。
「俺は見方だ!」
と叫んで振り向くと93式中錬の真横をなんと!石田少佐の乗った零戦が追い越して行くではないか。
「あんたの相手なんかしてる暇は無いんだ!」
龍野は時計を見た。間もなく11時だ。

  その時B29の巨大な爆弾倉がゆっくりと開くのが見えた。石田少佐の零戦は旋回し再び龍野の後方に付こうとしていた。B29の迎撃など二の次で龍野の93式中錬を狙っているのは明らかだった。石田少佐の零戦が急降下して再び機関砲を撃ち始めた、龍野はスロットルを一瞬閉じた後、フルスロットルに戻しながら右のフットバーを思い切り踏んだ。赤トンボの支柱は悲鳴を上げかけたが動きの緩慢なはずの練習機の機体は驚くほど機敏に、大きくロールを打った。勢いの付きすぎた石田少佐の零戦はつんのめり龍野の目の前に出てしまった。龍野にとって石田少佐の零戦はいまや絶好の射撃目標であったが、相手にしている暇は無かった。石田はパニックに陥っていたが龍野が撃って来ないことに気が付くと性能差を生かして急上昇し、何とか龍野の前から離脱していった。
(B29はどこだ?)
石田少佐との空中戦のため大分高度を落としていた。龍野は上昇しながらB29を再び認めた。その時、B29の爆弾倉から数トンはあろうかと思われる巨大な物体が投下された。新型爆弾に違いが無かった。異様な大きさの爆弾は大きな放物線を描き落下傘を開きながら落下して行く。もう間に合わないのは決定的であった。龍野は爆弾に向かって急降下して行った。その時再び機関砲の赤い火柱が龍野の周りを通り過ぎて行った。石田少佐が再び攻撃してきたのだ。もう一連射しようとした時、石田は落下傘にぶら下がった巨大爆弾に気が付き、済んでのところで激突を回避した。2つの飛行機が爆弾の真横を猛スピードですり抜けて行き爆弾は落下傘をくるくると回転させて海側へ移動して行った。
(しめた!)
高速で爆弾の横を通過すれば飛行機の巻き起こす猛烈な気流で爆弾を移動させることができるかもしれない。高度は900メートルをさしていた。龍野は急上昇した。石田少佐の零戦も急上昇で追尾してきたが、動きのにぶいはずの赤トンボはみごとなインメルマンターンで石田少佐をやり過ごし再び急降下に移った。時速は320キロを越え機体が軋む。93式中錬の急降下制限速度を完全に超過しているが構わない。再び猛スピードで爆弾の真下を通過する。石田少佐の零戦はさらに早い速度で通過する。爆弾はさらに海の方へ流されていった。再び上昇反転に移った時、零戦の7.7ミリ機銃弾が次々と翼を突き抜けた。命中率の悪い20ミリ機関砲は止めたようだ。高度は既に700メートルを切り、長崎の街並みがはっきり確認できる。もう爆発は目前のはずだ。今すぐ退避すればまだ間に合うかもしれない。しかしあの広島の街の光景を忘れることは出来なかった。龍野は覚悟を決めた。不思議と恐怖感は無かった。特攻で一度は死んだはずの身なのだ。けれどもあの時とは比べるべくもなく心は軽かった。脱走兵の汚名はあったが、重い爆弾を抱えることも無い、練習機w)氓ニは言え信頼する部下が最高の状態に整備してくれた飛行機を理不尽な命令では無く、自分の自由な意思で操り、大好きな大空を駆け巡ることが出来たのだ。

  石田少佐の零戦が背後に迫っているのは分かっていたが、龍野は一直線に爆弾を目指した。高度は600メートルを切った。再び7.7ミリ機銃弾が次々と翼を突き抜けてゆく。爆弾まであと100メートル。石田少佐の放つ機銃弾が遂に龍野の右肩と腹部に命中した。灼熱感が右肩と腹部に走ったが目は爆弾を捉え続け微塵も進路は変えない。
(一郎・・・すまん!)
見たことも無い巨大な爆弾に赤トンボは激突し、機体は四散した。海上へ移動しつつあった新型爆弾はひと際大きくその進行方向へ弾かれた。捥がれた翼がひらひらと宙を舞う中、石田少佐は反転し上昇していった。
「バカめ、爆弾に突っ込みやがった。」
そう呟いた時、ようやく龍野のとった行動の意味を悟り戦慄が石田の体を駆け抜けた。
11時2分。高度503メートル。人類が作り上げた4トンの悪魔の放つ光と高熱が長崎の空に炸裂し、全てを焼き尽くした。

エピローグ

俊一の妻は昼食の準備を始めていた。テレビでは原爆慰霊祭の模様が放映されていた。
「そうめんでいい?」
妻の声が聞こえていた。俊一はあの経験の後、実家にあった古い写真や手紙を探し祖父の手がかりになる記述を探し続けたが、前に見た1枚の写真以外何も見つけることはできなかった。新聞を読んでいるとひとつの記事が目に留まった。
〔原爆投下を予見した海軍大尉〕
記事には長崎に原爆が投下された日の朝、1人の海軍大尉が長崎の駅で広島に投下されたものと同じ新型爆弾が落とされる可能性があるので、市の中心部を離れるよう呼びかけていた。間もなく憲兵に連行されたが、指示に従った人たちは奇跡的に被爆を免れることができたというものであった。
(無口は、龍野博史は中尉だった。彼では無いのか・・・)
俊一はしばし新聞に見入っていた。テレビからは相変わらず長崎の様子が放映されていた。
(・・・その飛行機は海軍の練習機で赤トンボと呼ばれていた飛行機ではないかということです。広島より被害が少なかったのは海に近いところで爆発したからと言われていますからもしかしたら、関係あるのかもしれません)
NHKのアナウンサーの「赤トンボ・・」の声に俊一は思わずテレビの画面に見入った。
「何て言った?今何て言うとった?」
俊一は妻に詰め寄った。
「長崎に原爆が投下された時原爆の周りを小さな飛行機が飛び回ってたって言うとったよ。原爆を健気に海上まで誘導しようとしているみたいだったって。」
不意に忘れていた記憶が脳裏に浮かんできた。
(子供の頃一度だけ飛行機に乗せてもらったよ。オレンジ色の小さな飛行機・・・)

  俊一の実家は自転車で5分ほどのところにあった。
「おやじ、かあさんの部屋見せてもらってええか?」
俊一の母は俊一が幼い頃に亡くなっていた。箪笥には何も無かったが鏡台の一番下の引き出しに古い紙の箱があった。手紙がたくさん収められていたが、ひと際色あせた2通の封筒が一番底にあった。一通の差出人は「花村 憲明」であり、宛名は「近藤伍長殿」とあった。龍野中尉が長崎に向かって一人飛び立って行ったこと、自分も長崎に向かう旨のことが書かれてあった。もう一通の差出人は「龍野 博史」であった。
(近藤伍長殿 長く世話になった。明日の朝長崎に向かう。サキのこと頼む。赤トンボは快調である)
文面はそれだけであった。しかし俊一は心の中に欠落していたジグソーパズルの一片をようやく見つけることができた。父の話では戦争が終わって15年目、近藤という人がサキという娘を連れて尋ねてきた。かって祖父の部下だったとのことであった。
「お父さんは脱走兵なんかではありません。」
近藤はそういって父の家族を慰めてくれたのだった。その時父はサキを見初め2年後に結婚し、5年後に俊一が生まれた。
俊一の乗った赤トンボに母も乗せてもらったのだろうか、俊一の言葉を手がかりに龍野博史は飛び立って行ったのだろうか。終戦も間際、彼らの行動にどれ程の意味があったとしても今となってはそれを推し量る術は無い。
(兄貴みたいやったな・・・)
颯爽と飛行機に乗り込む龍野博史の姿がまぶたに浮かんだ。まだ若かった祖父との短い出会いを思いながら俊一は8月の平和の空を見上げた。

このページの一番上へ

感想を書く

ホーム戻る