ノベルる

マイアール皇国記 寺院騎士団編

オリオン作
プロローグ


  樵(きこり)のジョゼップ爺さんは、仕事帰りに教会で懺悔するのが習慣だった。まいにち懺悔する事があると言っても、特にこの老人が極悪人と言う訳ではない。それに、本当の悪党なら、教会なんかに行く訳がない。だから、この爺さんの場合、日々のたわいない話を司祭に聞いてもらうのが、主な理由だった。つまり、世間話をしに行くと言った方が、表現は正確かも知れない。

  教会は、町外れにひっそりと建っていた。
  折からの夕日が、小さな鐘楼を赤く染めている。
  重量感のある扉を押し開けると、そこは礼拝堂だった。
  いつもなら、小柄な司祭がすぐに出迎えてくれるのだが、今日は様子が違っていた。
「ライネス司祭! わしじゃ、ジョゼップじゃ!」
  呼びかけても、何の反応もない。教会の中は、静まり返っていた。
  ぽつんと佇むジョゼップ爺さん。
  彼の目の前には、一本の道があった。

  日曜日には、信仰深い人々で埋まる座席に挟まれ、その道は続いていた。
  突き当たりには、壮麗なステンドグラスの光に照らされた祭壇がある。
  その祭壇の十字架の下に、ライネス司祭はいた。いや、正しくは、ライネス司祭の首があった。

「もし、そこのお人…」
  ジョゼップ爺さんは、思わぬ方向から声をかけられ、そちらの方へ向いた。

  そこには、爺さんよりも頭二つ分は背が高い男が立っていた。彼は、腰に剣を差し、長いマントを羽織っていた。歳は少し年配のようだ。

  既にすっかり肝を潰していたジョゼップ爺さんは、叫び声を上げる。
「ウエエ〜!」
  腰を抜かさんばかりに驚いて、教会から飛び出して行く。 
  背の高い年配の男は、半白の頭を掻きながら呟いた。
「こりゃ、勘違いされたかな?」
  ジョゼップ爺さんは、この男が全身に返り血を浴びているものだと勘違いしていた。実際は、夕日を取り込んだステンドグラスの赤が、この男の半身を照らしていただけだった。
  しかし、ジョゼップ爺さんが慌てたのも無理はない。あんな物を見た後なのだから…。

  教会で一人きりになった男は、祭壇に近づいて行く。
  十字架の根元に、ライネス司祭の生首があった。
「むごい事を…」
  生首は、まだ切りたてらしく、傷口から血が流れていた。よどんだ二つの目が、恨めしそうにこちらを見ている。
  年配の男は、居たたまれずに祭壇の裏側に回った。すると、祭壇の裏には、さらに奇怪な物があった。それは、人間の生皮だった。
  ライネス司祭の物であろうそれは、綺麗に剥ぎ取られ、まるで敷物ででもあるかのように床に置かれていた。
  その近くには、皮を剥ぎ取られた後の体があった。体には、何故か狼の毛皮が被せてある。
「まさか、あの女の仕業か?」
  年配の男から、独り言が出る。彼のただでさえ鋭い目が、険しくなっていった。


    第一章

  馬上槍試合

  マイアール皇国の首都、マイアールは、ステキア公国内に位置している。皇国の主たる皇王は、三公国(ステキア、クロテニア、フクドニア)の各王を治める王の中の王と言う意味で、皇王の称号を得ていた。
  しかし、実際は、何の権限も与えられない飾り物に過ぎない。事実上、このマイアール皇国を動かしているのは、三公国の各長、ステキア公爵、クロテニア公爵、フクドニア公爵の三公爵だった。
  この三人の合議制で、何でも決めてしまう。
  名ばかりの皇王は、唯一の自慢を持っていた。それは、スカロンと言う名の騎士だった。

  彼は今、晴れ舞台に立っている。各地の貴族、名だたる騎士が参加する馬上槍試合の会場にいるのだ。
  ここは、首都マイアールのど真ん中に位置している。周りには、教会や宮殿、三公爵の上屋敷などの高い建物があった。そのために、試合会場はマイアールのヘソとも呼ばれていた。 

  スカロンは、重装備に身を固め、軍馬に跨っていた。
  鏡のように磨き上げられた鎧兜から露出した部分は、目だけだ。鉄仮面の細い隙間から見せる緑色の目は、何者をも恐れない強い光を放っている。
  軍馬には、金色の馬具を付け、右手に三メートルもの馬上戦用の槍を持ち、左手には三角形の盾を装備していた。

  周りから、熱狂的な歓声が上がった。左右の観覧席にいる観客によるものだ。
  スカロンは、それにより、戦いの合図が近い事を知った。
  彼の目の前には、五十メートルほどの長さの柵が続いていた。高さは、馬上の人の腰くらいだった。そして、その柵を隔てた先に、スカロンの対戦相手が対峙していた。
  おもむろに、戦いの合図を送る役が立ち上がると、目に鮮やかな黄色の旗を手に取った。
  ちょうど、二人の戦士の中間地点だ。
  旗を振り上げ、振り降ろす。

  スカロンは、軍馬の脇腹に突撃を促す命令を送った。拍車で蹴られた馬は、気合いの入った飛び出しを見せる。
  周りで、ひときわ高い歓声が沸き上がる。
  重装備の大男を乗せた馬は、その重みのために時速三十キロメートル位の速度を出すのが限度だ。互いに近付くので、擦れ違う時の速度は時速六十キロメートル位になる。
  その動く中で、重い長槍で相手を突くのは、かなり難しい。だが、攻撃が成功した場合、馬の速度プラス騎士の腕力が、小さな槍先にかかるのだ。突かれる側の衝撃は測り知れない。
  そのため、先に槍先を当てた方が大抵は勝利する。
  二人の騎士の間合いは、あっと言う間に縮まった。
  互いに、鎧の色合いや軍馬の額の飾り付けを確認できるほどだ。
  だが、揺れ動く馬上で、それを鑑賞するゆとりがある訳ではない。しっかり狙いを付けるのは、自分が突きたいポイントだ。

  スピードを上げて、柵越しに近付く二人の戦士!
  擦れ違う瞬間、槍が粉ゴナに砕けた。飛び散る木片が、二人の騎士の像をボヤけさせる。

  無事に馬を駆けさせているのは、スカロンだった。
  彼の対戦相手は、ふっ飛ばされて地面に転がっている。主を失った馬は、そのまま走り続けた。
  スカロン! スカロン! スカロン!

  人々の歓声は、最高潮に達した。
  スカロンの左側の観覧席には、マイアール皇国内の一般の人々が入っていた。様々な服装の彼等は、立ち上がり、手を振って喜んでいた。試合会場を見下ろしている教会の屋根の上にも、大勢の見物人がいて、彼等も大きく手を振っている。
  スカロンは、それらの声援に応えるように、砕けて半分の長さになった槍を頭上で振り回した。
  柵の端で馬首を巡らせ、今度は反対側の観覧席に目を向ける。
  こちらは、貴族方が座る席なので、一つ一つがボックスで仕切られた立派な物だった。しかし、盛り上がりは今一つだった。
  各ボックスは指定席になっていて、各家の紋章が描かれている。
  手前から、今スカロンに倒された騎士を送り出したフクドニア公国関係者のボックス。前の試合でクロテニア公国代表に敗れたステキア公国関係者のボックス。そして、これから決勝戦でスカロンと当たるクロテニア公国関係者のボックス。
  どれにも盛り上がれるだけの要素がない。ただ、この三つより高い段に設けられたボックス席だけは違った。ここは、マイアール皇王の関係者が居る席だ。
  今年で十歳になる皇王は、自分の親衛隊の活躍に大喜びだった。日頃の鬱憤(うっぷん)を晴らすべく、大きく両手を振っていた。
  スカロンは、それに答えながら、颯爽と御前を駆け抜け、西のゲートから退場した。 

  東西のゲートの奥には、選手の控えの場があった。クロテニア代表は、東側のゲートになる。
  スカロンが勝利を納めていた頃、その若者は厩(うまや)にいた。

「次の試合で最後ですから、お互いに全力を尽くして頑張りましょう」
  馬に対等な立場で話しかけたのは、背の高い男だった。
  彼は、肩幅が広く、がっしりしている。しかし、それとは逆に顔は童顔で、目なんか馬よりも可愛い。彼は、栗毛の馬に丹念にブラシを掛けていた。

  馬の世話をしているが、この男は下男では無い。れっきとしたクロテニア代表の騎士だ。
  剣も帯びず、鎧も着けず、ただの毛織りの胴衣とズボン姿では、とてもそうは見えない。
  もっとも、馬の世話をする場合、剣も鎧も邪魔になるだけの物だが…。

  そんな時、彼は顔に風を感じた。
  栗色の前髪の下で輝く、素直そうな黒色の瞳が、厩(うまや)に入って来た人物を見つめた。
「エルシーク様、このような場所へ…」
「様は余計ですわ、カイル・デュ・ライネス卿」
  薄暗い小屋に入って来たのは、その場所に似つかわしくない可憐な少女だった。プラチナブロンドの美しい髪を伸ばし、表情豊かなエメラルド色の瞳と、艶やかな唇を持っている。透き通るような白い肌とバラ色の頬は、高貴な生まれを感じさせた。
  彼女は、淡いグリーンのドレスを身にまとい、首にネックレスをしていた。ネックレスは、控えめな感じの黒真珠だが、彼女の白い肌とのコントラストで、とても目立っていた。
「私の方も『卿』を付けるのは止めていただけないでしょうか?」
  馬の世話をしていた男、カイルは、控えめに申し出た。 

  エルシークは、目を細め、手を口元へ持って行った。どうやら、笑いをこらえ切れないらしい。
  笑いの対象者であるカイルは、相手がなぜ面白がっているのか理解できないでいた。
「何か変ですか?」
  カイルが、生真面目に聞く。
  本人は気付いてないが、背が高い筋骨隆々の立派な騎士が、誰にでも腰が低いと言うのは、何だか可笑しいものである。特に、エルシークのような若い娘には、不思議でしょうがない。
「ごめんなさい。気を悪くなさらないで」
「……」
  カイルは黙っているが、エルシークには、既に許しは得ている事は判っていた。二人の付き合いは長いのだ。ただ、付き合いの内、エルシークが言葉を話せなかった期間がかなりの部分を占めているのだが…。
「それでは、卿を付けないで呼んで欲しいのね?」
「その方が助かります」
  エルシークは、悪戯っぽく微笑むと、カイルに話しかけた。
「それなら、わたくしと取引したい訳ね?」
「はあ、そうなりますか?」
  エルシークがどんな条件を持ち出してくるのか予想できないカイルは、不安げだった。

「キスをしてくれたら、卿を付けないで呼んで差し上げます」

  エルシークは、目を閉じると、ふっくらとした唇を上に向けた。
「もう、好きなようにして!」と言わんばかりだ。

「……」
 
  暫くして、エルシークはそっと目を開けた。
  カイルは、彼女に背を向けて、馬にカラス麦を与えていた。
  しかし、カイルのその行動は、エルシークの予想通りだった。だが、判ってはいても、少しは傷つく。
「ライネス卿! ライネス卿! ライネス卿! 」
  エルシークは、カイルの背中に連呼した。それから、彼に近づくと、悪戯が過ぎた子猫のように、そっと顔を見上げた。
  カイルは、別に怒っている様子は無かった。ただ、申し訳なさそうに呟く。
「すみません。今は試合前で、姫に構って上げられるだけの心のゆとりが有りません」
  エルシークは、カイルに素直に謝られて、本当に悪い事をした気になってしまった。
「こちらこそ御免なさい。こんなつもりではなかったのだけれど…」
  エルシークは、首から黒真珠のネックレスを外した。
「これを、お守り代わりにお渡ししようと思って…」
  彼女は背伸びをするが、相手が高すぎるようだ。
「すみません、届かないの。屈んでくださらない?」
  カイルは、床へ片膝を付いた。
  エルシークは、カイルの首にネックレスを掛けた。
「男の人で真珠のネックレスは可笑しいかな?黒真珠だから、そんなに変でもないと思うのだけれど…」
  エルシークの疑問に対して、カイルは全く別の事を話題にした。
「前にもこんな事が有りましたね…」
  カイルの言葉は、エルシークにも思い当たるらしく、笑顔で頷いた。
「ええ、森の中で、あなたの腕の傷を縛った時に…」
  エルシークの笑顔は、いつでもカイルの心を癒やしてくれる。
「今日の決勝戦は、姫のお陰で全力を尽くせそうです」
「くれぐれも無理をなさらないで。相手のスカロンは、ここまで全ての試合を一本勝ちで決めてきた強者(つわもの)なのですから」
「心配は入りません。…貴女のために勝ちます」
  躊躇いがちに言ったこの台詞は、エルシークの胸を一突きにした。
「そんな気の利いた言葉を誠実な方に言われたら、わたくし、嬉しくて泣いてしまいますわ。では、ご武運をお祈りしています」
  エルシークは、足早に厩から去って行った。 

  決勝戦を迎えて、試合会場は盛り上がっていた。
  クロテニア代表のカイルと、皇王親衛隊代表のスカロンは、貴族席側の中央に並んでいた。
  真正面のボックス席には玉座があり、弱冠十歳の皇王、マイアール三世がいた。
  王冠をかぶり、王家の紋章が入った長外套を着ている彼は、子供とは言え流石は王だ。威厳たっぷりに立ち上がると、良く通る高い声で宣言をした。
「これより、決勝戦を行う! 両名とも、健闘を祈る!」
  両騎士は、陛下に深々と一礼を捧げると、スタート地点へと馬を駆けさせた。
  カイルは、所定の位置に向かいながら、クロテニア関係者の席に目を向けた。もちろん、彼のお目当てはエルシーク姫だ。
  彼女は、心配そうな表情をしていた。しかし、カイルに見られている事に気が付くと、慌てて微笑んだ。

  さて、槍持ちから長槍を受け取り、スタート地点に着いた両騎士。
  後は、試合開始の合図を待つだけだ。
  スカロン! スカロン! スカロン!
  さすがに、声援は圧倒的にスカロンの方が多い。何故なら、スカロンは地元マイアールの騎士だからだ。それに、カイルは騎士としては名が売れてない新人だが、スカロンは大会十連覇のスター選手だ。年期
が違う。
  しかし、カイルには、周りの雑音は届いていなかった。耳は、自分の心臓の音しか聞こえていないし、目は、合図の旗の動きに集中していた。

  黄色い旗が、振り下ろされた。

  カイルは、勢い良く飛び出した。風を切り、グングン進む。
  長槍を水平に保つと、目標物は間近に迫っていた。
  擦れ違う瞬間、カイルはスカロン目掛けて槍先を突き出した。
  カイルの目の前で、木片が飛び散る。その直後、かつて経験した事がないような衝撃が右胸に襲いかかった。スカロンの槍が、カイルにヒットしたのだ。
  カイルは、両膝に力を込め、何とか落馬だけは免(まぬが)れた。
  一方、カイルの攻撃は、スカロンに上手にかわされていた。
  スカロンは、カイルの槍先を盾で受けると、そのまま角度をつけて脇へ流した。そして、攻撃を受け流されてがら空きになったカイルの右胸を、簡単に突く事ができた。
  技を決められたが、これでカイルが敗退する訳では無い。馬上槍試合は、基本的には三本勝負だ。そして、突く場所によって点数も決まっている。胸が一点で頭部が二点だ。そして、落馬した場合は、即失格だった。カイルもスカロンも、ここまで相手を落馬(ノックアウト)して勝ち上がって来た。互いに、初めて二回戦をやる事になる。
  両騎士は、いったん柵の端まで走ると、馬首を巡らせて自分のスタート地点に戻る。つまり、帰る時にもう一度擦れ違う事になる。
「よく踏ん張ったな、小僧!」
  スカロンが、カイルに声を掛けた。
  カイルは、返事をしようとしたが、その時には互いに遠く離れてしまっていた。
  カイルもスカロンも、二回戦目を戦うべく、スタート地点に着いた。

  そして、再び黄色い旗が振られる!

  猛然と飛び出す二騎。激突の間合いは、すぐに縮まった。先の勝負では、相手を突くのが早すぎた。反省したカイルは、待つ事にした。待つと言っても、勝負自体が一瞬だ。ほんの瞬(まばた)き一二回の余裕しか残されていない。
  しかし、再び先に行動を起こしたのは、カイルの方だった。既にポイントを失っている彼は、待ちきれなかったのだ。
  腰を少し浮かせ、左腕の盾をしっかりと構え、右手に持った槍を突き出す。
  だが、又も槍を食らったのは、カイルの方だった。まともにハンマーで殴られたような衝撃が、今度は顔面に有った。スカロンの槍が砕け散り、カイルの鉄仮面が変形した。
  カイルは、自分の背中が馬の尻に当たるのを感じた。慌てて右手を泳がせる。辛うじて、何かが指先に引っかかった。馬の手綱だ。それを夢中で掴むと、力いっぱい引き寄せた。今度も、何とか落馬だけは免れた。

  少し落ち着きを取り戻したカイルは、自分の長槍を見た。槍には、抉れた傷跡が有った。どうやら、スカロンに付けられた傷らしい。スカロンの槍が、カイルの槍を弾き飛ばして、そのまま顔面を襲ったようだ。恐るべき怪力の持ち主だ。
「命拾いしたな、小僧!」
  擦れ違った時のスカロンのコメント。カイルは、再び返事が出来なかった。

  場内は、いつの間にか静まり返っていた。騎士による一対一の熱戦は、観客の心を釘付けにしていた。もはや、両英雄の名を叫ぶ者はいない。ただただ、その行方を見守っているだけだった。
  新しい長槍をそれぞれに受け取った両騎士は、スタート地点に着いた。
  大粒の汗を流し、猛り、はやる軍馬。カイルは、優しく首を叩いてなだめた。自分自身も、鎧の下は汗でぐっしょりだし、心臓もびっくりする位の速さで動いている。
「次が最後の一番です。頑張って下さい」
  馬に言い聞かせた言葉だが、自分自身にも当てはまっていた。ただ、カイルに取って状況は不利だった。今の所、スカロンの点数は三ポイントで、カイルの点数は0ポイントだった。スカロンは、槍を食らっても落馬さえしなければ勝てる。それに対してカイルは、相手を落馬させる以外に勝利は無かった。
  そんな時だ。会場の南側にある一般庶民が陣取る観覧席で、五六人のグループが立ち上がって足を踏み鳴らし始めた。
  ドン、ドン、ドン♪ ドン、ドン、ドン♪
  庶民席の方は、立派な貴族席と違って、板が横に渡してあるだけの代物だった。老若男女がこぞって、その板がしなる程も踏みつける。
  ドンドンドン♪ ドンドンドン♪ ドンドンドン♪
  それが、南側の観覧席全体に広がって、会場中に響き渡った。
  ダンドンドン♪ ダンドンドン♪ ダンドンドン♪
  やがてそのリズムは、北側の貴族席にも伝染した。しかし、貴族達は立ち上がる事はせず、短剣の柄をテーブルに打ち付けたり、胸鎧を叩いたりしてリズムを取った。あまり端たない真似が出来ない貴婦人方は、主に手拍子で参加していた。
  ダンドンダン♪ ダンドンダン♪ ダンドンダン♪
  会場全体が打楽器と化していた。そして、そこには合唱も混じって来た。
  ♪ お前の力を見せつけろ!♪
  ♪ 敵を必ずぶちのめせ! ♪
  ♪ どちらが強いか判らせろ! ♪

  試合開始の合図を送る旗振り役は、ベテランだった。そのため、いつこの騒ぎが一段落するかは分かっていた。そして、彼の予想通り、会場に静寂が訪れる。その機を逃さず、黄色い旗を振り下ろす。最後の勝負の開始だ。再び、歓声が上がる。

  その騒ぎの中、カイルは、エルシークの姿を観覧席の中に捜していた。彼は、お目当ての姫と目が合うと、一礼した。試合中だと言うのに、何だかカイルらしからぬ行動だったが、それには理由が有った。行き詰まった自分の立場をリラックスさせる必要があると感じての行為だからだ。
  その時、試合開始の合図が送られた。スタートで出遅れ、苦笑いするカイル。どうやら、今までの負けが吹っ切れたようだ。
  だが、アクシデントが起こった。カイルの長槍が地面に落ちたのだ。その瞬間、誰もがスカロンの勝利を確信した。
  再び、二人の戦士は激突の間に入った。スカロンの長槍が、カイルを襲う。
  カイルは、盾を両手で構えると、スカロンが突き出した槍先を受け止めた。吹き飛ばされそうな圧力に耐え、盾に角度を与える。すると、槍先はその表面を滑って行った。白地に赤い剣と盾の模様の国境警備騎士団の紋章は無惨に傷付いたが、スカロンの攻撃を凌(しの)ぐ事が出来た。
  今度は、カイルが攻撃する番だ。
「ご無礼をお許し下さい! スカロン殿」
  カイルは、スカロンの左足を掴むと、そのまま持ち上げた。馬具の鐙(あぶみ)から足が抜け、スカロンは向こう側へ綺麗に落っこちた。
  これは、「鐙(あぶみ)返し」と言う技だ。馬上槍試合で使う者はまず居ない。第一、高速で駆け抜ける騎馬戦で、擦れ違いざまに出来る芸とうでは無い。しかし、カイルは最初からこれを狙っていた。槍は落ちたのでは無く、落としたのだ。
  カイルの逆転勝利は、奇跡に近いものだった。勝者を讃える声が巻き起こり、それはかなり永く続いていた。
  首都マイアールで行われる一大イベント、馬上槍試合は、クロテニア公国代表のカイルの優勝で幕を閉じた。その日、クロテニアの上屋敷で盛大な宴が設(もう)けられたのは、言うまでもない。

  月の綺麗な夜だった。首都マイアールの東に位置する巨大な建物は、青い光に照らされ、静かに佇(たたず)んでいた。
  その建物こそ、クロテニア公国の上屋敷、小ガイアールだ。
  本国にあるガイアール城より一回り小ぶりではあるが、その威風堂々としたさまは、他の建築物を圧倒している。その小ガイアール城の一室で、カイルは目を覚ました。
「ふう〜っ」
  そのベッドは、カイルに取って馴染みの深い物では無かった。いわゆる、居心地が悪いと言うやつだ。彼に取ってそれは、フカフカ過ぎるのだ。しかも、目の前には天使の絵をあしらった天蓋。周りには薄絹が覆っていて、外の景色に斜をかけていた。
「少し飲み過ぎたかな?」
  カイルが、一人つぶやく。彼の黒色の大きな瞳は、焦点が定まっていなかった。今夜の祝宴で、カイルはかなり酔わされていた。だが、カイルの勝利を祝うために行われたのだから、それは仕方のない事だ。
  カイルは、体の中の酒を飛ばすかのように、両手で顔を叩いた。そして、勢いよく起き上がる。
  ベッドの傍(かたわ)らには、小さな机が有った。その上には、皮製の袋が置いてある。
  カイルは、皮袋を手に取ると、目方を計ってみた。金属がぶつかり合う乾いた音が鳴った。
  実は、彼は今夜から旅に出ようと思っていた。旅先では、金貨の方が剣なんかよりずっと役に立つ事を、旅慣れているカイルが知らない筈が無い。だから、幾ら置いて行くべきか考えていた。できるなら、なるべく手持ちを残したい。
「鉄仮面は変形したし、鎧はボコボコだし、あと、槍を七八本破損したな……」
  どうやら、カイルが馬上槍試合で使用した装備は、クロテニアからの借り物らしい。彼は、机の上に数十枚の金貨を置いた。しかし、これでは足りないだろう。盾の分が抜けている……。

  月明かりに照らされた庭園は、とても幻想的だった。部屋の灯りを消し、窓を開け放つ。エルシークは、夜の庭を眺めるのが、とても好きだった。
  昼間の喧騒が嘘のように静寂した世界。噴水池も、生け垣で作った緑の迷路も、色とりどりに咲き誇る花壇も、全て眠りについていた。
「まだ起きていらしたんですか?」
  優しい声が、エルシークの耳に届いた。声の方に目を向けると、そこにはカイルが居た。
「カイル様がお逃げにならないように、見張ってましたの」
  エルシークは、悪戯っ子みたいに微笑んだ。彼女の嫌みの無い笑顔は、見ていてホッとする。しかし、どうやらカイルは、「お逃げ」になるようだ。すっかり旅支度を整え、馬を引いていた。
「でも、見張っていて正解でしたわね。酷いです。『さよなら』も告げずに出発するなんて……」
  エルシークは、窓から身を乗り出した。彼女からは、窓の外のカイルと同じ目線になる。いつもは見下ろされてばかりなので、少し新鮮だった。エルシークのエメラルド色の瞳は、咎めるようでいて、そして悲しげだった。
「申し訳ありません。フクドニアの養父が急死したらしく、帰らなければなりません。せっかくの祝宴に言い出す事ができなくて……十日もすれば戻ってまいります」
「まあ大変、あの方にはわたくしもお世話になりました。お悔やみ申します。父はその事を知ってますの?」
  エルシークは、沈痛な面もちでカイルに聞いた。
「クロテニア公には書き置きを残しました」
  カイルの答えを聞いて、エルシークの細くて形のいい眉が少し跳ね上がった。
「父には書き置きを残して、わたくしには何も無しですの? それでは、出発は許可できません」
  カイルは、無言のままマントの中から手を出した。その手には、赤い薔薇が一輪。
「これで出発させていただけないでしょうか?」
  カイルは、エルシークに薔薇を差し出した。甘い香りが、お姫様の鼻をくすぐった。
  思わず、薔薇を手に取ったエルシーク。ご存知のように、薔薇には棘があるはずだ。ところが、カイルが差し出した薔薇は、綺麗に棘を取り除いてあった。
「わたくしの騎士様、早く戻って来て下さいな」
  エルシークは、カイルに向かって微笑んだ。それを見て、カイルも安心したかのように笑みを浮かべる。
姫に一礼すると、馬を引き、城門に向かって進んで行く。蹄の音が、夜の静寂の中でカツ、カツ、と響いていた。カイルは、一度も振り返らなかった。だが、エルシークは、その姿が見えなくなるまで見送っていた。
「もう二度と逢えなくなる」彼女には、そんな予感がしていた。
  エルシークは、急にいてもたっても居られなくなった。そして、その感情を行動に移した。いきなり、窓枠から身を乗り出すと、地面に向かって飛び降りた。白いドレスの裾がふわりと翻(ひるがえ)り、見事に着地した。そのまま裸足である事も気にせずに走り出す。
  彼女は、暗闇の中で何度も躓(つまず)きそうになる。その姿は、森で迷った子供が、必死で家を目指す姿に似ていた。
  エルシークが城門の所まで走ると、誰かが立ち止まってこちらを見ていた。その人物に、エルシークは抱きついた。
「カイル! ギュっと抱いて!」
  まるで、親鳥の羽の下へ避難しに来た雛鳥のようなエルシークを、邪険にできる筈が無い。カイルは、要望通りに強く抱きしめた。二人には、時の流れが止まったように感じた。
「ごめんなさい。もう大丈夫……」
  エルシークが、カイルの耳元で囁いた。カイルが、腕の力を抜く。
  カイルの両腕から解放されたエルシークは、明るい声で言う。
「もう、追いかけないから心配しないで! サラっと行っちゃって」エルシークは、笑顔を見せると、軽く手で追い払う仕草をした。
  カイルは、狐に摘まれたような顔を暫くしていた。しかし、気を取り直すと、馬に跨って出発した。
  エルシークは、その後ろ姿に手を振り続けた。

  時は遡(さかのぼ)り、カイルがエルシークに別れを告げる八時間前の事だった。
  首都マイアールからフクドニア公国へと続く街道を、一人の騎士と従者が旅していた。
  皇王を表す青い聖なる剣に、赤い蛇が守るかのように巻き付いている。この紋様は、皇王の近衛騎士団の肩章だった。この騎士の正体は、スカロンだ。
  彼は、馬上槍試合が終わった直後に出発したため、重武装のままだった。街道を行き交う人々は、その物々しい旅装に何事かと道を空ける。いや、空けざるをえない。馬は、かなりの速度で走っているのだ。
「スカロン様、このままでは、馬を乗り潰してしまいます! もっとゆっくり行きましょう!」
  スカロンに呼びかけたのは、彼の従者だった。従者は、なかなかお洒落な男だ。空色の胴衣に黒いズボン。黒光りする水牛革のブーツを履き、ブーツと同じ材質のベルトを腰に巻いていた。ベルトには、柄に紅水晶をはめ込んだ短剣を差している。体つきは小柄で、顔立ちは悪戯小僧を大人にした感じだ。イメージ的には、お洒落で小狡(こずる)い小猿を思わせた。
「これが急がずにいられるか! 姉貴が復活したんだぜ! アージャン!」
  スカロンは、風に向かって吼えた。銀色の鎧が、夕日の照り返しを受けて輝いていた。彼は、アージャンとは対照的に大柄な男だった。顔の輪郭は、ホームベースみたいな五角形だった。頑丈そうな顎は、いかにも頑固そうな感じだし、青い目は、小さいけれど可愛いとは言えず、人を見下すような冷酷さを持っていた。ゴワゴワの金髪はヤマアラシのように突っ立っていて、いかにも攻撃的な人間に見えた。
  狂ったように疾走する二騎は、フクドニア公国を目指して走り続けた。


  豚飼いのガースは、飼育所で育てた豚を、コンケスの町の市場へ連れて行く途中だった。
  馬や牛、それに羊などと比べて、豚の家畜化は極端に遅かった。そのため、かなり野生に近いのが、当時の豚だった。原種の猪に比べれば、かなり肉付きは良くなっていたが、気性の荒さはそのままだ。しかし、牙は、名残がある程度になっていた。
  恐れ知らずの肉の塊を運ぶには、やわな荷台では壊されてしまう。ガースが運ぶ六頭の豚は、頑丈な鉄の格子に囲まれた荷台で、不満の声を上げていた。
  二頭立てのガースの荷馬車は、うららかな春の日差しを浴びて、のんびりと進んでいた。いつしか、牧草地帯を抜け、街道の両側にマロニエの木が並ぶようになった。それは、コンケスの町が近付いている事を意味している。異変が起きたのは、その時だった。
  まるで、生きたまま熱い油に放り込まれたような、そんな悲痛な悲鳴を豚が上げたのだ。ガースは、慌てて荷馬車を止めた。六頭の豚は、狭い檻の中で混乱していた。狂ったように動き回る。こんな豚の反応は、ガースが今まで経験した事が無い物だった。
  そんな時、道の端に止めた荷馬車の横を、一人のご婦人がロバに横座りしてのんびり通った。
  彼女は、スラリと伸びた素足を、まるで子供のように動かしていた。細くて白いその脚は、とても色気があった。この美しい脚をぶらぶらさせる度に、緋色のスカートが捲れている。
  普段のガースだったら見とれる所だが、今はそれどころでは無い。豚が大人しくしないのだ。
  大慌てのガースを、女は楽しそうに眺めていた。この女が美しいのは、脚だけでは無い。全てのパーツが美しいのだ。特に、表情が豊かな顔は、美しいだけで無く、見ていて飽きない。大きな黒い瞳と、意志が強そうな眉。結い上げた黒髪は、赤いバンダナでまとめている。ブラウスは白い物を着ていたが、袖口と襟元に赤いストライプのアクセントを入れていた。
  彼女は、顔が小さいために、口が少し大きく見える。その口元から舌先を出すと、豚に向かって舌なめずりをした。
  ブヒィ〜!
  ガースの豚は、その途端にえらい事になった。鉄格子に体当たりして気絶したのだ。全部の豚が、女から逃げるような格好で悶絶していた。
  女は、ガースの荷馬車が遠ざかるまで笑いをこらえていた。やがて、荷馬車から離れると、ケラケラと笑い始めた。
「えらく楽しそうだな? ケイト」
  女は、思わぬ所から声を掛けられた。振り返ると、柄の悪そうな大男が、いつの間にか付いて来ていた。
「あら、あら、お久しぶり。生傷クリードさん」
  クリードと呼ばれた大男は、馬に乗っていた。ロバに乗っているケイトを見下ろす形になる。
「俺にとっては初めましてだな。人の姿のあんたに会うのは、これがお初だからな……」
  大男は、面白くもなさそうに答えた。彼は、片目に黒いアイパッチをしている。顎髭の濃い顔には、大きな刀傷が有った。彼こそ、クロテニア公国領の南に位置するルルドの森の盗賊団、グールズの首領、生傷クリードだった。
「人の姿の私はいかが?」
  美しい人に微笑まれても、クリードの話し方は暗くて重い。彼は、ボソボソと言い返した。
「尻尾が生えてた女に興味はないね」
  クリードの目の前にいる可愛らしい女性は、数ヶ月前までは黒い狼の姿だった。彼女は、呪われた姿をある女性と交換して、元の人の姿に戻れたのだ。
  ケイトは、大きな目を見開き、反論した。
「あれは仮の姿で、今が本当の姿なの!」
  クリードは、ケイトの事を上から下まで眺めてから、またボソリと話し出した。
「びっくり物だな。あれがこんなになっちまうとは……」
  黒い狼の時にしか会っていないクリードは、当然、ケイトの本当の姿を知らない。彼は、ケイトの事を知っているアージャンと言う人物から、彼女の背格好を聞いていた。ただ、彼女を特定する決め手となったのは、先程の一件だ。舌なめずり一つで豚を気絶させられる女は、他にはいない。
「あなただって、しばらく見ないうちに随分と様変わりしたわよ。特にこの辺が……」
  ケイトは、腹の辺りをさすって見せた。その行為は、クリードの太鼓腹を揶揄(やゆ)したものだ。
「誰だって中年になればこうなる物だぜ。あんたの御子息でもな」
  クリードの言葉に、ケイトは過剰に反応した。
「失礼な事を言わないで! カイルに限って、そんなだらしなく太るなんて事にならないんだから!」
  酷い言われようだが、クリードは気にしないようだ。ケイトの意見にあっさり同意する。
「まっ、そうだろうな。ところで、そのカイルだが、いきなり目の前に現れた時は驚いたぜ。なんとか知らないフリはできたけどな」
  いま話題になっているのは、クリードとカイルが二度目に出会った時の話だった。
  それは、三年前に遡(さかのぼ)る。

  クリード率いるグールズ盗賊団は、三年前、クロテニア公爵の愛娘、エルシーク姫を誘拐した。それを救出したのは、クロテニア国境警備騎士団の一員、カイルだった。クリードは、その時にカイルと二度目の出会いを果たしている。
  クリードとカイルの最初の出会いは、カイルが赤ん坊の時だった……。

  二十年ほど前、当時二十歳前の若造だったクリードは、数人の仲間と国境付近で荒稼ぎをしていた。しかし、無鉄砲な若者を、いつまでも野放しにしておいてくれる程、世の中は甘くない。いずれ、追い詰められる事になる。しかも、その相手は、精鋭中の精鋭、クロテニアの国境警備騎士団だった。クリード以外の仲間は、すでに捕まるか殺されるかしていた。そして、クリード自身も、片目を失い、顔に傷を受けていた。馬を乗り捨て、命からがら森の中を逃げ回るクリード。しかし、遂に運も尽きたようだ。五人の屈強な騎士に追い詰められ、選択は二つだけになっていた。一つは、抵抗して殺されるか?もう一つは、捕まって縛り首にされるか?この二つだけだ。死と言う現実だけは動かせない。ただ、死に方の問題だけだった。
  そんな時、第三の選択肢がいきなり訪れた。大きな黒い狼が、その場に飛び込んで来たのだ。
  黒い大きな獣は、瞬く間に五人の騎士を片付けた。五人分の血の海に立つ黒い魔獣は、クリードをじっと見つめていた……。

「『どうせなら、人の手にかかって死にたかった』あの時は、本当にそう思ったよ」
  クリードは、二十年前のケイトとの出会いを思い出して、そう呟いた。
  すかさず、心外とばかりにケイトが異議を申し立てる。
「何を言っているのかしら? 私のお陰で助かったくせに」
「確かに、助かったよ」
  クリードにしては、素直に認めたので、ケイトは拍子抜けした。小首を傾げて肩をすくめて見せる。
「こちらこそ大助かりよ。あの子を預かってもらったんだから……。あんな姿では赤ん坊なんか育てられない」
  ケイトは、先程までの明るい感じとは違い、えらくしんみりした口調で語った。
  それに対してクリードは、彼としては珍しく、少しおどけて見せた。彼女を励ますつもりだったのかも知れない。
「狼が女の声だったのも驚いたが、その狼がくわえて来た籠の中に赤ん坊が居るのもびっくりしたよ。ただ、一番ショックだったのは、俺が子守をするはめに陥った事だな!」
  クリードの心遣いが嬉しかったのか? ケイトは、少し微笑んだ。
  二十年前、黒狼(ケイト)から預かった赤ん坊こそ、カイルだった。それから十七年後、立派な騎士に育ったカイルは、再びクリードの前に現れた。
「赤ん坊の時に会ったきりなのに、あの子だと良く分かったわね……?」
  ケイトの疑問に、クリードは答えた。
「ああ、まず、名前でピンときたよ。カイルと言う名前はお前が付けた名前だろ。それから、俺もあの子を二三ヶ月くらい育てたからな……面影があるような気がした」 
  ケイトは、赤ん坊をあやすクリードの姿を想像した。その途端、笑いが止まらなくなってしまった。
「あなた、その髭面で? やめてよ」
  ケイトのバカ笑いは、なかなか治まらなかった。
「人を指差して笑うもんじゃないよ。失礼な女だね!」
  クリードは、憮然とした表情だ。
  暫くして、やっと笑うのを止めたケイトは、急に真顔になった。
「それで、あの子を父親の所へ送り届けてくれたんでしょ?」
「ああ、お前に言われた通りにな。傷が癒えて路銀が貯まったら、すぐに連れて行った」
「そう……二十年間、お礼が遅れたわね。ありがとう」
  素直にそう告げるケイトに、クリードは照れた笑いを見せた。
「助けられた時の約束だ。気にするな」
  ロバに横座りしたケイトと、馬上のクリードは、暫く無言で旅を続けた。コンケスの町を離れ、長閑(のどか)な田園風景が続いている。色鮮やかな菜の花畑。目に眩しいくらいの黄色だった。風に乗ってくる香りは、悪くは無いのだが、花の数が多いために少しきつかった。
  そんな時、クリードが思い出したように口を開いた。
「これは、あんたの息子の怪力ぶりを示すものだ」
  その「怪力ぶり」を示す物を、ケイトに向かって放り投げた。
  ケイトが受け止めたのは、鉄製の錠前だった。それは、まるで飴細工のように捻られ、壊れていた。
「三年前にカイルがやった事だ! 人間業では無いな」
「あらあら、ウチの子がご迷惑をおかけしまして」
  ケイトは、捻れた錠前を指先で元通りに戻すと、クリードに投げ返した。
  受け取ったクリードは、暫く鉄製の錠前をバカみたいに眺めていた。そして一言。
「やっぱり、あんたら親子だな……」

  マイアール皇国の中の三公国は、武力のクロテニア、文化のステキア、そして、その両方を兼ね備えたフクドニアに分かれている。
  クロテニアは、豊かな森をその領内に持ち、木材や毛皮が主な産業だった。ステキアは、首都マイアールを中心に、商業が盛んだ。最後にフクドニアは、農業の国だった。そして、教会の守護神、寺院騎士団の本拠地としても知られていた。

  マイアール皇国で一番大きな宿場町、コンケスト。何本もの大きな街道が縦横に交差するこの町。その中には、フクドニア公国へ至る道も伸びている。
  広大な穀倉地帯に、ポツン、ポツンと家が点在している。大きな建物は、教会と風車だけだ。その二つの建物を取り囲むように、集落ができている。集落の周りは高い壁が囲んでいた。
  教会は、広大な領地を管理し、年貢を取っていた。つまり、教会が城で、その司教は領主と一緒だった。ただ、領主は王に任命されるが、司教は寺院騎士団の長老が任命する。フクドニア公国は、寺院騎士団が支配する国だった。一応、表向きの支配者は、フクドニア公爵になっていたが、その領地は五分の一に過ぎない。一領主としては大きい方だが、公国の支配者には程遠い。
  その可哀想な公爵の城は、フクドニア公国のほぼ中央に位置していた。

  薄暗い廊下だった。一人の騎士が、ガシャガシャと鎧を鳴らして歩いて行く。その様子から、彼の怒りの度合いが計れた。
  怒りに燃える騎士の後を、紫色の法衣を着た男が追いかける。彼は、この城の執事だった。
「お待ち下さい。スカロン様」
  その声に、騎士は立ち止まる。そして、振り返った。
「ひっ!」
  執事は、引きつった声を上げた。それほどスカロンの顔は怖かったのだ。
「シッ、シッ!」
  スカロンは、壁に掛けて有った松明(たいまつ)を引き抜くと、火が点いたまま執事に投げつけた。執事は、叩きつけられた松明(たいまつ)の火の粉に追われ、犬のように逃げて行った。
「まったく、この城の人間は腰抜け揃いだ!」
「愚痴を言うのも腹が立つ」と言わんばかりに、スカロンは呟いた。
  彼は、目的の部屋に入ると、勢いよくドアを閉めた。
  バタン!
  ドアが外れそうな音が室内に響いた。
「どうかしたの? スカロン」 
  動揺のない落ち着いた声が、スカロンに話しかけた。声の主は女性だった。
「どうもこうもないぜ、姉貴! フクドニア公爵の奴は、狐みたいな臆病者だぜ」
  スカロンの発言に対して、すぐさま反論が上がった。
「狐はそれほど臆病でも無いのよ。ただ、慎重なだけ」
  スカロンは、新鮮な気持ちで感動した。彼は、長い間、人に反論された事がなかった。反論されたとしても、相手に自分に対する怯えを感じていた。彼を恐れない只一人の人物は、彼女(ケイト)だけだった。

  スカロン達がいるのは、フクドニア公爵の城、マケイン城だった。クロテニアのガイアール城や、ステキアの都市部の発展ぶりからすると、かなり見劣りする城だった。第一、外観からして風采が上がらない。丸みを帯びた所が一つも無く、全てにおいて角張っているのだ。使っている石も暗い色ばかりだし、色の配置も考えてないから、何だかぼやけて見える。外観からしてこんな感じだから、内側も想像がつく。そしてそれは、期待以上の物だった。
「本当に客間かよ!」
  殺風景な部屋に置いてあるのは、木の椅子が三つとテーブルだけ……。
「まあ、客間だと思うと腹が立つけど、使用人の休息所だと思えば良い方でしょ」
  相変わらず落ち着き払った声の主は、窓辺にいた。
「落ち着いている場合じゃないぞ! フクドニア公が、兵隊は出せないと言って来たぜ」
  ケイトは、窓辺から離れると、スカロンの真向かいに座った。そこへ、従者のアージャンが葡萄酒を持ってやって来た。
「気が利くのね」
  ケイトが微笑みかける。
  アージャンは、照れ笑いしながら葡萄酒の入った錫製のコップを配った。
「ところで、本題に入らせてもらうぜ、姉貴。例の寺院騎士団の事だけど、フクドニア公爵の助けが無くてもやるのか?」
  少し興奮気味のスカロンに、ケイトは冷静に答える。
「フクドニア公爵の協力が得られないのは最初から分かっていた事よ。寺院騎士団に逆らうのは立場上ムリでしょ」
「それなら、俺たち三人で片付けるか?」
  スカロンは、まるで物置の整理でもするような口調で言ってのけたが、その言葉の意味する所は恐ろしい事だ。
「いずれ、そうなるでしょうね……」
  スカロンとは対照的に、ケイトは沈んだ声で呟いた。 

  スカロンは、酷く機嫌が悪かった。それは、不甲斐ないフクドニア公爵に対するものばかりでは無い。彼の不機嫌の主な理由は、目の前のケイトだった。彼女は、スカロンとの再会にちっとも嬉しそうな様子を見せない。それが、再会を喜ぶスカロンには納得できないのだ。普段なら、腕力に物を言わせるのだが、ケイトが相手では、それは通用しない。
「何か心配事でもあるのか?姉貴」
  髪の毛が逆立ちそうな怒りを抑えて、スカロンは優しく聞いた。
「……」
「姉貴がお探しのジークフランドル卿は、クリードの配下が見つけてくるよ」
  スカロンを無視するかのように、ケイトは突然立ち上がった。
「ちょっと出掛けて来る」
  これには、スカロンも堪忍袋の緒が切れた。金髪を掻きむしり、小さな目を血走らせる。
「俺と会えて嬉しくないのかよ!」
  眉間に皺を寄せ、目を釣り上げるスカロンを、ケイトは呆れた顔で眺めていた。
「だからお前は単純だって言うのよ。二十年ぶりに弟同然のお前に再会したんだよ。嬉しくない筈が無いだろう? ただ、今まで幸せに暮らしていたのに、変な事に巻き込んだのが心配なだけ……」
  淡々と語るケイトの言葉を、スカロンはすっかり信じ込んだ。
「何だよ姉貴。そんなこと気にすんなよ」
  スカロンは、急に機嫌が良くなった。全く、単純な男だ。
  ケイトは、微妙な微笑みを残し、部屋のドアを閉めた。

  スカロンがフクドニア公国に到着してから、遅れる事八時間。カイルは、故ライネス司祭の教会にいた。新任の司祭の話だと、ライネス司祭の墓は、森を抜けた小高い丘の上にあると言う。
  森の小道に馬を進めながら、カイルは今は亡き養父を思っていた。
  二十年前のある日、春だと言うのに妙に肌寒い朝、カイルは寺院騎士団の本拠地、ガブリエル城の前に捨てられていたらしい。
  当時、寺院騎士団の一員だったライネス卿は、その子を一目見るなり、引き取りたいと申し出た。その後のライネス卿の行動は、周囲が首を捻るようなものだった。まず、未婚だった彼は、戦士としての生活では子育ては無理と判断して、寺院騎士団を辞めてしまった。別に子守を雇えば済むことなのだが、自分の手で育てる事にこだわった。そして、小さな教会の司祭となった彼は、二十年間カイルに愛情を注いだ。
  カイルのライネス司祭に対する印象は、「凄く優しい人」と言う事だった。小さな頃から叱られた記憶があまり無い。ただ、良いことをすると凄く誉めてくれて、間違った事をすると、酷く悲しげに見つめていた。それに、司祭は裏表の無い正しい人だったから、カイルには良いお手本になった。
  そして、十三年の月日が流れ、十三才のカイルは、寺院騎士団へ騎士見習いとして入る事になった。ライネス司祭は、分厚い手紙を持たせ、心配そうにカイルを送り出した。その時の寺院騎士団の幹部は、司祭とは親しい間柄だった。
  やがて、カイルも遠征に出る事となる。昔から、異教徒から信徒を守ると称して、戦争に行く事が多い。そのため、この連中は戦い慣れしている。それが、寺院騎士団の強さの秘密でもあった。
  ライネス司祭は、カイルが出征する日に寺院騎士団を訪ねて来た。それは、十字架のお守りを渡すためだった。我が子に手を振りながら見送る司祭は、とても寂しそうだった。
 
  二年の歳月が流れ、遠征から帰ったカイルは、寺院騎士団を辞めてしまった。戦争は、悲惨な物だった。中でもカイルが耐えられなかったのは、武器を持っていない人々も、軍馬で踏みにじる事だった。略奪、陵辱、放火、あらゆる理不尽が、戦場では当たり前のように起こった。何万人もの兵隊の中の一人であるカイルが、その全部を止める事は不可能だった。
  カイルは剣を捨て、養父と共に教会で働いた。
  それから、また二年の月日が流れた。
  十七才になったカイルは、ある噂を耳にした。それは、クロテニア公国とマンジン国の国境辺りに出没する盗賊団の話だ。神出鬼没で暴れまわる彼らは、グールズ団と呼ばれ、人々に恐れられていた。
「父上、クロテニア公国へ行かせて下さい! 国境警備騎士団に入って、盗賊を倒すお手伝いがしたいのです」
  司祭に真っ直ぐ物を言う青年は、背が高く、がっしりしていた。顔にはまだ幼さが残るが、骨格から肉の付き方まで、大した美丈夫ぶりだ。
  一方、ライネス司祭は、小柄でほっそりしていた。顔立ちは、色白で目鼻立ちが整っている。それで優しいのだから、言い寄る女性も多かった。だが、ずっと独身でいる事を選んだ。物腰が柔らかい司祭だが、ライネス卿として寺院騎士団で活躍していた時は、一流の剣客として恐れられていた。カイルにも、剣技の手ほどきをしている。
「お前がそう言い出すと思って、ちゃんとクロテニア公爵への紹介状を書いておいたよ」
  司祭は、灰色の修道衣の隠しから手紙を取り出すと、カイルに手渡した。
「公爵とお知り合いなのですか?」
  カイルの質問に、司祭は曖昧に答えた。
「少しね……」
  二日後、クロテニアへ出発するカイルに、ライネス司祭は初めて使う言葉を口にした。それは、寺院騎士団に入る時も、二年間の遠征に向かう時も、一度も口にしなかった言葉だった。
「さようなら……愛しい子よ」

  ライネス司祭の事を考えながら馬を進めていると、いつの間にか森を抜けていた。目の前は、小高い丘になっている。どうやら、養父の墓はここらしい。カイルは、馬から降りると、手綱を木の枝に結び付けた。

  一歩一歩、丘を登って行く。丘の上には、木の十字架が立っていた。そこからは、なだらかな草原が見下ろせる。その先には、小さな村が在った。ライネス司祭の教区の一つだ。
  更に、ずーっと先には、森に囲まれた黒ぐろとした山が在った。その中腹に、大きな城が建っている。かつて、ライネス司祭が騎士だった時代に忠誠を誓っていた場所。寺院騎士団の本拠地、ガブリエル城だった。

「父上、遅くなりました……」
  十字架を、まるで司祭本人のように、愛おしげに触れた。懐かしい養父の笑顔が、自然と脳裏に浮かぶ。カイルは、ふと、視線を落とした。すると、花束が目に入った。誰かが司祭に供えた物であろう。誰が供えたのか思案していると、後ろに人の気配を感じた。
  振り返ると、花束を持った女の人が立っていた。白いブラウスに赤いスカートを穿いた若い女だった。
  彼女とは、まだ距離が在った。しばらく見つめ合った後、彼女は急にカイルに背を向けると、歩き出した。そんな女性の背中を、カイルは不思議そうに見つめていた。
  彼女は、十歩ほども歩いただろうか? 今度は急に立ち止まり、振り返ってカイルの方に向かって来た。そして、司祭の墓の前に跪(ひざまず)くと、お供えの花を換え、祈り始めた。

  無言のまま、その行動を見守っていたカイル。彼は、その女の人の横顔を見つめていた。
  伏せた長い睫(まつげ)。桜色のちょっと大きめの口。色白の彼女は、とても美しい女だった。黒髪は、腰の辺りまで伸びて、艶々と波打っていた。
  細い指先を揃え、一心に祈りを捧げている。ただ、本当に祈っているのか? 考え事をしているのか?  心の動揺を隠そうとしているのか?は判らない。
  やがて、目を開けた彼女は、カイルに話しかけた。黒色の瞳が、とても魅力的だった。
「失礼致しました。あなたの邪魔になってはと思い、帰るつもりでしたが、せっかく摘んで来た花が無駄になると思い直して戻って参りました」
  丁寧に頭を下げる彼女に、カイルは恐縮した。
「お気を使われる必要はありません。来ていただければ、亡き父上も喜びます」
「御子息様でございますか?」
  女は、驚いたフリをした。
「はい、カイルと申します」
「わたくしは、この付近の村に住むケイトと言います。ライネス司祭には、生前に大変お世話になりました」
  ケイトと名乗る女性は、カイルの事を上から下まで眺めている。まるで、その目に焼き付けようとするみたいに……。
  カイルは、ケイトに“お世話”の内容を聞こうとした。しかし彼女は、そのまま立ち去ってしまった。ただ、途中で立ち止まった。

「お父様の事、お悔やみ申し上げます」

  彼女は、背を向けたままこう言うと、足早に行ってしまった。
  カイルは、その後ろ姿を見ながら、唖然としていた。何だか、いま起こった事が幻に思えた。
  だが、ケイトと名乗る女性は印象に残った。何故か懐かしい気がしたのだ。彼女の顔を思い出すと、心の奥が熱くなる。その気持ちが、カイルには理解できなかった。

  墓参りが済んだカイルは、丘の上から見下ろせた村へ向かう事にした。彼としては珍しく、あの女性に再会したいと思ったのかも知れない。

  街道に沿って、家がポツン、ポツンと建っていた。どの家も、夕食の支度にかかっているのだろう。藁(わら)や土の匂いを押しのけて、いい匂いが立ち込めている。もう、夕日が沈む時間だった。
  さらに進むと、家々が密集するようになる。村の中心部に入ったようだ。
  辺りは、すっかり暗くなっていた。

  フクドニア公国は教会が多く、信者の数もマイアール皇国内では一番多い。そのため、他の公国とは違い、不道徳な店が少なかった。この村でも、酒場は一軒だけだった。
  カイルは、そこで食事を取る事にした。

  店の中に入ると、ちょっと異様な雰囲気になっていた。それは、明らかに地元の人間ではないと判る男たちが大勢いたからだった。どいつもこいつも一癖も二癖もありそうな連中が集合していた。
  カイルは、店の隅にあるテーブル席についた。すると、丸顔の、愛嬌たっぷりな給仕が、すぐに飛んで来た。
「いらっしゃいませ、お客さま」
  給仕がさらに言葉を続けようとした時、村のじいさんが顔を出した。
「ジョゼップじいさん。今日は止めといた方がいいよ」
  給仕が声をかけると、じいさんは店内の様子を見て納得した。
「そのようじゃのう……」
  ジョゼップじいさんは、あっさりと引き上げた。
「今日は荒っぽいお客様ばかりがいらっしゃるので、常連さんにはご遠慮願っているんです」
  給仕の説明に、カイルは聞き返した。
「それでは、迷惑しているのですか?」
  給仕は、両手を振ってそれに答えた。
「いえ、いえ、あの方々からは前金でたっぷり貰ってますから」
  給仕の答えに、カイルは驚いた。
「この方々は、同じ仲間なのですか!?」
  店内には、ざっと四十人の荒くれ男たちが飲み食いしていた。
「二階の宿の方も入れると、全部で八十人くらいでしょうか?」
 
  カイルは、考え込んでしまった。その理由は、この荒くれ男たちに見覚えがあるからだった。特に、店の中央に陣取る二人には、以前に必ず会っている。
  二人の内の一人は、肌の色が黒くて、背が高い男だった。もう一人は、体が小さくて、顔のデカい男だった。体が小さい方は、口が大きくて、えらが張っている。
  カイルは、その二人が誰だか思い出した。

「あの〜、ご注文の方は?」
  人の良さそうな顔から、難しい顔に変わっていたカイルに、給仕は恐る恐る話しかけた。
「お店のオススメ料理と葡萄酒」
  カイルは、いつもの人なつっこい表情に戻ると、給仕に注文した。
「すみません。料理はレンズ豆のスープしかないのですが……」
  給仕は、カイルが怒り出すのではないかと思っていた。ところが、その予想を裏切って、カイルの顔は穏やかなままだった。
「これだけのお客さんが来ていては、仕方ないですね」
  カイルの答えを聞くと、給仕は安心して厨房に戻った。
  一人になったカイルは、周りの喧騒も気にせず、考え事をしていた。それは、店内を埋め尽くしている連中の事だった。

「クロテニアを根城にしているはずのグールズ団が、なぜフクドニアに……」
  カイルは、思わず呟いた。

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