ノベルる

ある人の肖像

朝川サチ作
第十章 ある人の肖像

  五月の風が吹く。花が散り、すっかり緑豊かな葉に覆われた桜の木々が窓から見える。雲が青空を行き、陽気もこんなに穏やかなのにどこか物悲しいのは五月病だろうか。
  「教授、どうしたんですか?ため息なんかついて。」
  講義の質問に来ていた佐々木が心配そうに尋ねる。どうやら無意識のうちに、情けないことにため息なんかを漏らしてしまったらしい。
竜田川教授ははっと我に帰って、首を振った。
  「なんでもない。最近少し疲れているのかも知れない。」
  教授になってからは、あの頃より格段に仕事が増えた。大学での講義に講演会、学会、メディア・・・少しは休みがほしいものだ、と彼は思った。
  「お茶でも入れましょうか、それともコーヒーのほうが・・・」
  気を利かせて佐々木が言った。そしてイスから立ち上がって「あの棚」に向かった。
  「いや、コーヒーはいい。そこに紅茶あるだろ、それにしてくれ。」
  教授は棚とは反対側のデスクの上を指差した。
佐々木が振り返ってみると、たくさんの本や資料に埋め尽くされた机の上に、どうもそぐわない紅茶の缶がひとつぽつんと置かれている。佐々木は引き返し、その缶を手に取った。軽い。もうすぐなくなりそうな、そんな紅茶だ。
  「へぇ、教授はアールグレイがお好きなんですか?変わってますね。僕はどっちかって言うと、ダージリンとかアッサム系が好きなんですけど・・・ほら、これってちょっと香りが独特じゃないですか。」
  葉をポットに移しながら、佐々木が言った。教授は疲れのせいか、心ここにあらずといった様子で、適当に反応はしたが言葉にはならなかった。
  紅茶がカップに注がれるまでの間、しばらく沈黙が流れた。教授は眠ってはいないが、目を閉じたまま動かなかったし、佐々木はそんな教授を気遣って黙って時計を見ていた。
アールグレイの葉は、温かな湯の中で上に行き、下に沈み・・・一定のサイクルの中で回り続けている。教授はその光景をまぶたの裏に見ていた。
  ―人生もまた、そんなものだろうか。流れに従って、みな同じように生まれ、いつか死ぬ。後者は前者を追いかけ、前者はさらに先を行く。それは時の流れ、決して交わることのない過去と現在と未来。過去失ったものは未来、再び見ることはできない。永遠に流れていく時代の中で、変わり行く思いの中で、変わらないのは・・・―
  「教授!」
  教授ははっと目を開けた。眠ってしまっていたのだろうか。
  「お茶、入りましたよ。」
  佐々木がテーブルにカップを置いた。中の紅茶に、外の景色が映っている。
  「おぉ、ありがとう。悪いな。」
  教授は申し訳なさそうな顔をした。
  「いいですよ。疲れてるんでしょう?心理学者って、やっぱりいろいろ頭とか使いますもんね。」
  愛想のよい表情を浮かべ、佐々木は言った。なんと優しい教え子だろうか。講義も熱心に聞いているし、成績もよい。将来はぜひ、後任にしたいものだ。
  「あれ!教授、この本・・・」
  ソファーに座るとよく見える位置に、本が置いてあった。それはあの物がたくさん乗っている机の上で、さっき紅茶の缶を取りに行ったときには見えかったものだった。
座ったばかりの佐々木は再び立ち上がると、そちらに向かった。
  「本」と言われた瞬間、教授はどきっとした。何の本かは言わなくともわかる。自分がそこに置いたのだから。しかしあまり突っ込まれたくはない本だ。佐々木はさらっと流してくれるだろうか・・・。
  「これ、僕も読みましたよ。教授も好きなんですか?」
  佐々木は本を手にとって、パラパラとページをめくった。どうやら好きな本だったらしい。食いついてきそうな勢いだ。教授は気分が若干重くなったのを感じた。
もちろん好きだからそこに置いたのだし、何度も読んでいるのだが、実はあまり他人に触れてほしくはない思いがあったのである。適当に返事をして、その話題からそれてくれるように祈ったが、そう簡単にはいかない。佐々木の目はイキイキしている。しげしげと表紙を眺め、中を確認する。
本のタイトルは「ある人の肖像」、作者は・・・
  「朝川サチ、僕全巻持ってるんですよ。かなりいい話書きますよね。あれ!教授って前D大にいたんじゃなかったですっけ?会ったこととかありましたか?」
  その質問をしないでくれ、と教授は思った。この熱心な生徒に本当のことを言うべきか、それとも自分の心境に素直に従うべきか・・・
  「いや、ないよ。大きい大学だったからね。」
  教授は顔色ひとつ変えない。ポーカーフェイスだ。
このウソの発言に、佐々木は残念感をもろに示した。教授は罪悪感を感じながらも、少しほっとしていた。彼は信じてくれたようだ。
  本当は会ったこともあるし、よく知ってもいる。しかし佐々木は何も知らない。だからそのままでよいのだ。
  佐々木は依然として本を手放さない。教授の期待とは裏腹に、この話題はまだまだ続くようだ。
  「これ、いいですよね。もう5,6回読んでますけど、未だに泣きますもん。たしかここ十年、日本で一番売れたんですよね。朝川サチの最高傑作で・・・」
  あぁ、それ以上は言わないでくれ、と教授は思った。
これ以上は耐えられそうにない。聞けば彼女を思って、涙があふれてくるだろう。やり場のない悲しみが、激しく押し寄せてくるだろう。
いつか再び会おうと約束したのは5年前、今も君を忘れられない。あの顔、あの声、あの日々を・・・それなのに
  「これが遺作だなんて、それだけでまず泣けますよ。こんな小説家はこの先もう出てこないですよね。そう思いませんか、教授?あれ・・・」
  佐々木はきょろきょろと部屋を見回した。
誰もいなかった。佐々木が話しに夢中になっている間に、教授はどこかに行ってしまったようだ。気の毒だが、教授との楽しいひと時は終わってしまったらしい。

***

  しばらくの後、傷心の竜田川教授は外にいた。花のない、桜並木の下を行く。
正面から吹く風に涙が横に流れた。
  彼女の死の知らせを聞いたのは、あの約束をした次の日。あんなに明るい笑顔で手を振っていた彼女が、自殺だなんて・・・それは今でもにわかに信じられなかった。
しかしどんなに耳を疑っても、突きつけられた事実はおそらく永遠に変わらないだろう。
それは痛いほどにわかっているのだ。
  それを悲しむ心と平行して、今皮肉にも、彼女の気持ちが痛いほどにわかる。愛するものを失っても、愛は消えないということ。
彼女が言ったように、教授は彼女に言いたかった。
  ―永遠に愛されることがなくても、君への愛しさは変わらない―
  空の青は涙でゆがみ、漂う雲が光っていた。
二度と会えない君を、俺はまだ恋しく思う。君も同じだったのだろう?
「あの本」の中で、君は永遠に愛を語る。君の短い一生をかけたあの愛を。いいさ、何度でも耳を傾けよう。そして何度も失恋し、それでも君を愛するだろう。
  生まれて、出会い、死んでゆく世の中の流れの中で、永遠に変わらないものがあるとすればそれは・・・君の気持ち。
「彼の肖像」を胸に抱き、一途に、正直に貫いた君の思いは永遠だ。そんな君を思い続ける自分に、少しもためらいなんてない。でも・・・
  ―でも・・・―
  教授は目を閉じた。あふれた涙がほほを伝い、落ちていくのがわかった。あたたかい。
  あふれるほどに愛しても、君が応えるわけではないけれど、君のように素直に言えたらよかった。
ただ一言・・・「愛している」と言いたかった。
  木の葉を揺らす、風の音。それに混じってかすかに嗚咽が聞こえる。
  戻れない過去に、やっぱり戻りたいと思うのは正直な気持ち。そして例え君の、あのまっすぐに彼を愛する瞳を見て、傷ついてもいい。
会いたい・・・何百回も、何千回もそう思う。君もそう思っていたのだろうか?それとも死という事実を受け止めて、それでも彼に恋をしていたのだろうか。真意はわからない。でも君は、強い人だから・・・。
今、前に進めないほどの悲しみを抱えて、俺はどうするべきだろう。君に聞いてほしい、君に答えてほしい・・・。
なぁサチ、どうして君は・・・なんて言っても悲しくなるだけなのはわかってる。でも・・・単純に前向きだった君が「死」を選んだ理由がわからない。やっぱり「彼に会いたい」と思ったのかい?君の心はいつも想定外で計り知れない。
じゃあ俺は、君に会いたいと思う俺は、どうしたらいいんだろうか。

***

  涙が止まらない。教授がこんなに泣いたのは、あの知らせを聞いた日以来かもしれない。
かろうじて立ってはいたが、崩れてしまいそうだった。周りには誰もいない。
風の音だけが聞こえている、日曜日。
  会いたい、君に今、会いたいんだ。再び君に会えるのなら、何だってしよう。でも無理だ。だから俺は死を選んだりはしない。あの空の向こうで会いたいとは思わない。なぜかって?どんなに痛みを感じても、「君の肖像」を胸に抱いて、君の生きた証を見つめながらずっと―



―君を愛して生きたいから。


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