ノベルる

夢幻残照

呉月娘作
拙僧は、この地に故あって参ったものにございます。
  ここは恋の還る地。生まれる地。物語に謡われた宇治の地でございます。源氏物語に出てきた貴公子も、ここが宇治の地でなければあれほどに恋に狂われることがなかったでしょう。そしてまた、拙僧もあれほどまでに亡き御方に恋をしなかったでしょう。
  拙僧は世におりましたときには、おそれおおくも帝より大将の位を授かっておりました。自分で言うのも何ですが、拙僧はどの公人よりも優秀でございました。和歌に優れ、雅の心をよく知っており、どの楽器も見事に弾いたものでございました。そしておそれおおいことでございますが、父は関白殿、母は女二の宮と血筋においても優れておりました。
  そのように恵まれた拙僧でございましたが、ただ一つ欠点があったのでございます。それは幼き頃、はやり病に犯されたがゆえにおったこの醜い顔でございます。この醜い顔であるがゆえに、私は人々より蔑まれて、忠誠を誓った帝からも「ヒキガエルのようだ」とからかわれ続けました。なぜ、なぜ、なぜ。なぜなのでございましょう。拙僧は文にも、武にも人並み以上の技を持ちながら、この顔のせいで嘲笑されなければならないのです。悔しくて、悔しくて、悔しくて。何度、殺意にも似た感情を抱いたことでしょうか。そして何度、この世の不条理も呪ったことでしょうか。拙僧は…、私は少なくとも、酒に女にと享楽に耽っているものより人間として高みにいるはずなのに。
  もちろん、この醜い拙僧に北の方など来られるはずがございません。同僚達の「いくら才能があっても、北の方が来なければそれまでさ」という陰口に怒りで肩を震わせながら過ごしておりました。

  そのようなある日のことでございます。拙僧は滅多にいかないのですが、異母兄弟の家で行われた宴であの方とあったのです。
  あれは秋の花が咲きはじまたことでございます。異母兄殿の気まぐれで行われた宴での舞を楽しんでおりました。
  舞もそろそろ終盤にささったころ、一期は大きな風が吹いたのでございます。
  そして御簾がめくれ、あの方の姿が私の目に映りました。
  長く艶やかな髪。象牙のように細やかそうな肌。赤い唇…。かの紫殿でも、あれほどの美しさはなかったことでしょう。まるで天女が人のふりをしているのではないだろうか、と思えるほどの美しさだったのです。
  御簾の傍にいた甥が急いでその御簾を隠そうとした時、かの女人と目が合い…、二人はすぐに目と目を逸らしました。
「あそこにいる女人は、少将の妻ですか?」
思い切って尋ねてみると、
「あそことは?あぁ、御簾越しに見ているのは、少将と母を同じくする姉の春花の君だ。どうした?お前は、我が異母妹に恋でもしたのか?」
「もしそうなら、いただけますか?」
本気で問うならば、帰ってきたのは冷やかしの答え。
「春花がよいと言えばな。まぁ、都一の貴公子が迎えたいと言っても、あいつは断ったがな」
「そうですか…。それでは私は、無理でしょうね」
「何事も身分相応さ」

  その晩より、拙僧は毎夜毎夜通い続けました。そして、春花の君を手に入れました。中には「春花の君の趣味は変わっている」と申すものもいました。あの方は何度も何度も拒否しました。けれども弟殿、つまり少将との関係を拙僧が知っていると匂わせた時から、諦めたように拙僧の妻になることを承諾しました。そして、拙僧との間に子を設けました。
その後は春花の上と呼ばれ、拙僧と子と表面上は仲の良い夫婦親子(かぞく)を演じ、病でこの世を去ったのございます。

  妻の菩提寺に行くと、見目麗しい若者がおりました。
「もし、あなたはどちら様でございますか?」
「私は今は亡き、姫様と深い縁で結ばれた者にございます。世はかりそめ。人の縁は一期と申しますが、この様に儚きものだということは我が身に振りかかって初めて分かることでございます。井筒の前で遊び、男とも女とも意識せずにいた時代が真に懐かしゅうございます」
「真にその通りです」
「いかに仏が慈悲深く、神が哀れの情を抱いても、地獄に堕ちる恋慕の前では何の慰めにもなりません。ただただ過去が、雪のように心に積もるだけでございます。恋をすることが罪なのか。愛した相手が罪なのか。分からぬこの身ですが、地獄に焼かれようともこの身を捨てて、あの方をお探さなければなりません」
「一体、何を仰って…?」
意識がクラクラとしてきました。
「それがあの方を地獄に堕とし、穢した私の罪なのです」
罪…、一体何の…?

  狐にでも騙されたのでしょうか。
それとも、これは夢なのでしょうか?
  それとも、現実なのでしょうか?
  彼岸、というものでしょうか?
  いづこよりか、鬼が現れます。
「あれは!!」
鬼が纏うのは、亡き北の方の衣装ではございませんか。なら、あれは北の方?拙僧が堕としてしまったのでしょうか?
「姉上様…」
まさか、少将?
「姉上様、何処におわす?」
間違いなく少将の声でした。
「千里万里と探しても、貴方様は何処にもいらっしゃらないのはなぜでございましょう?生きて共にいられないのであれば、貴方様がいらっしゃらない現世など無用と命を絶ったというのに…。それでも、貴方様まで地獄に堕ちてしまうのは忍びなく、貴方様のために観音に懇願しようと思っても、観音は貴方様がここにはおらぬと申します…。貴方様は何処にいらっしゃるのです?もう西の果ても、東の果ても探したのになぜ見当たらないのです?」
鬼は歩き続けます。
「私の解語の花…。永遠にお慕い申し上げる姉上様。共に地獄に堕ちてくれとはお頼み申しあげません。一体、悪くない貴方様がなぜ堕ちる必要があるのでしょうか?貴方様と関係を持った私とは、もう顔も合わせたくはないと?私を見るのも汚らわしいと?けれども、姉上様。私は貴方様にお会いしたいのです。どうか、私の前に現れてくださいませ」
鬼は気付いていないのでしょうか。春花の君は、ずっと鬼を後から抱きしめていることを。
鬼のために泣いていることを。
「私は、もう貴方様からお情けを頂けないのですね…。大将殿に嫁いだ時から分かっていました。貴方様は、私との道ならぬ恋よりも、大将殿との幸せな生活を選んだということくらい…」
  春花の上は身を犠牲にしてまで、少将を守り続けたのに何と言う誤解でしょう。
「私が、己のために生きる私僕(しぼく)としての道を選んだように、貴方様もまた己のために生きる私僕になったのですね…。責められる立場ではないのですが…、姉上様、お恨み…」
顔を手で覆い、
「できる道理がございません…。姉上様、私の姉上様…」
幼子のように哀れな姿で泣き伏しました。

(そういえば、少将は急な病で亡くなったと聞いた…)
そのようなことを頭の隅で考えて、目をあけるとここは人の世。では、あれは夢であったのでしょう。
  仏の慈悲を見つけるも難しく、神の哀れも届かない。思いは花にも蝶にもならぬ狂い世。
  拙僧は、ここで体験したことを生涯胸にしまいましょう。それが拙僧の新たに犯す罪でございます。

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