ノベルる

山のふもとのマイスタージンガ

かせいち作
僕の家は山のふもとにあって、そこからは海がよく見える。
  水平線は峰より高く、視界を遮るものなんか何も無い。
  いつの日か君を連れてきて、ずっと一緒に眺めていたい。
  僕だけのとっておきの景色。



  山と山とに挟まれた、谷という空間。東の山のふもとに小さな家、その前で春雪(はるゆき)はバイオリンを弾いている。
  彼のいちばん好きな曲、パートはファーストバイオリン。
  重厚な弦楽から始まって、セカンドバイオリンと一緒にメロディー、金管のアンサンブルが入ってきて、ベースがメロディーを受け継いだら、…頭の中で曲をたどる。一音一音を丁寧に、連符のスラーが途切れないように、走らないように注意して、ここの旋律はフォルティッシモ、ビブラートを上手に効かせて、ピッチが崩れないよう気を付けて……
  やがてよみちが現れた。彼のいちばん好きな人。
  こんにちは、春雪。今日も練習がんばってるね。ここで聴いててもいい。
  春雪は笑ってうなずいた。目を閉じて弾き続ける。幸せな時間。
  いつの日か君とここに住んだら、いつでも聴かせてあげれるよ、だから、
  いつの日も言えずに終ってしまう。
  ねえ春雪、どうしていつも家の前で弾いてるの。よみちが不意に訊ねてきた。
  春雪は答える、僕はこの場所が好きなんだ。この景色の前で弾くのが好きなんだ。見てごらん、水平線が山の峰より高い位置にある。ずっと遠くにある海が、僕らを包んでいる山すら越えて、山のふもとからでもよく見えるんだよ。海を背景にそびえる山と、山を覆うような水平線と、このふたつが同時にある景色、そこで大好きな曲が弾けるなんて、大好きなバイオリンが弾けるなんて、とても素敵だと思わないかい。
  よみちも一緒に空を眺める。本当だ、素敵な風景ね、その曲にぴったりね。ふたりとも笑顔だった。その上君が傍に居るとなると、これほど素敵なことは無いんだよ、ねえよみち、だから一緒に、・・・今日も言えずに呑み込んでしまった。
  ところで春雪、さっきから弾いてるその曲は、一体何ていう曲なの。
  これかい、この曲は、









  僕の家は山のふもとにあって、そこからは海がよく見える。
  水平線は峰より高く、視界を遮るものなんか何もない。
  いつの日か君を連れて来て、ずっと一緒に眺めていたい。
  僕だけのとっておきの景色。





  山と山とに挟まれた、谷という空間。西の山のふもとに小さな家、その前で夏秋(なつあき)はバイオリンを弾いている。
  彼のいちばん好きな曲、パートはセカンドバイオリン。
  重厚な弦楽から始まって、ファーストバイオリンと一緒にメロディー、金管アンサンブルが入ってきて、ベースがメロディーを受け継いだら、・・・頭の中で曲をたどる。一音一音を大切に、連符のスラーが転ばないように、遅れないように注意して、ここの旋律はピアニッシモ、ビブラートをきれいに効かせて、ピッチが外れないよう気を付けて・・・・・・
  やがてこみちが現れた。彼のいちばん好きな人。
  こんにちは、夏秋。今日も練習がんばってるね。ここで聴いててもいい。
  夏秋は笑ってうなずいた。目を閉じて弾き続ける。幸せな時間。
  いつの日か君とここに住んだら、いつでも聴かせてあげれるよ、だから、
  いつの日も言えずに終ってしまう。
  ねえ夏秋、どうしていつも家の前で弾いてるの。こみちが不意に訊ねてきた。
  夏秋は答える、僕はこの場所が好きなんだ。この景色の前で弾くのが好きなんだ。見てごらん、水平線が山の峰より高い位置にある。ずっと遠くにある海が、僕らを包んでいる山すら越えて、山のふもとからでもよく見えるんだよ。海を背景にそびえる山と、山を覆うような水平線と、このふたつが同時にある景色、そこで大好きな曲が弾けるなんて、大好きなバイオリンが弾けるなんて、とても素敵だと思わないかい。
  こみちも一緒に空を眺める。本当だ、素敵な風景ね、その曲にぴったりね。ふたりとも笑顔だった。その上君が傍に居るとなると、これほど素敵なことは無いんだよ、ねえこみち、だから一緒に、・・・今日も言えずに呑み込んでしまった。
  ところで夏秋、さっきから弾いてるその曲は、一体何ていう曲なの。
  これかい、この曲は、









  ある日谷の真ん中に現れた、四角いくすんだ白色の箱。
  それは山よりも水平線よりも高く、視界は突然遮られた。
  どうしよう、僕だけのとっておきの景色がなくなってしまう、
  春雪は驚いて慌ててバイオリンを持って、東の山のふもとの小さな家を飛び出した。
  夏秋は驚いて慌ててバイオリンを担いで、西の山のふもとの小さな家を飛び出した。


  春雪が箱へやって来ると、そこにはバイオリンを担いだ男がひとり。
  夏秋が箱へやって来ると、そこにはバイオリンを持った男がひとり。
  こんにちは、君のそれはバイオリンかい。
  こんにちは、君のそれもバイオリンかい。
  こんなところにバイオリン担いで何しに来たんだ。
  君こそバイオリン持って何しに来たんだ。
  わからない。ただ、居ても立ってもいられなくて。
  僕もだ。気が付いたらここに来てしまっていたんだ。
  2人は何も言わず、同時に同じ行動を開始した。
  何するの。
  箱のてっぺんに行くんだよ。
  僕もだ、僕だけのとっておきの景色を取り戻すんだ。
  僕もだ、てっぺんに行ったら、何かあるかも知れない。
  2人は箱のてっぺんに登った。そこは風が強く、太陽が近くにあって、目も開けられない。
  海は見えるかい。
  見えない。山は見えるかい。
  見えない。
  景色、なくなった。
  ・・・・・・・・・。
  ・・・・・・・・・。
  ・・・ねえ、君何の曲が弾ける。
  君は。今何の曲を練習してる。
  せーので同時に弾いてみようか。
  じゃあ、行くよ、せーの、

  2人はバイオリンを取り出した。春雪はファーストバイオリン、夏秋はセカンドバイオリン、他の楽器こそ無いけれど、2人の中には立派なオーケストラが鳴り響く。
  重厚な弦楽から始まって、2人で一緒にメロディー、金管アンサンブルが入ってきて、ベースがメロディーを受け継いだら、・・・頭の中で曲が歌う。一音一音を丁寧に大切に、連符のスラーが途切れないように転ばないように、走らないように遅れないように注意して、ここの旋律はフォルティッシモでこっちはピアニッシモで、ビブラートを上手にきれいに効かせて、ピッチが崩れないよう外れないよう気を付けて・・・・・・
  その時突風が吹いた。箱のてっぺんの風は2人には強すぎた。風は2人をあおり、空へと飛ばした。
  途端に世界は真っ逆さま、とっさにバイオリンを腕で包んだ。空が足の下に広がって、まるで海のようだった。
  瞬間、彼らの目にはあのとっておきの景色がはっきりと浮かんでいた。
  ああ、ずっとふたりで眺めていられると、思ってた、
  大好きな人と、大好きな景色の前で、大好きな音楽を弾いて、いつまでも一緒に暮らしていよう。
  幸せな夢もろとも落ちて行く。
  よみち、愛してるよ、
  こみち、愛してるよ、



















  ある日彼らの前に現れた、四角いくすんだ白色の箱。
  それは山よりも水平線よりも高く、視界は突然遮られた。
  春雪は東の山のふもとの小さな家を飛び出したきり、帰ってこなくなった。
  夏秋は西の山のふもとの小さな家を飛び出したきり、帰ってこなくなった。
  よみちは春雪のバイオリンを抱えて、家を出た。
  こみちは夏秋のバイオリンを背負って、家を出た。


  よみちが箱へやってくると、そこにはバイオリンを背負った女の子がひとり。
  こみちが箱へやってくると、そこにはバイオリンを抱えた女の子がひとり。
  こんにちは、あなたのそれはバイオリンですか。
  こんにちは、あなたのそれもバイオリンですか。
  こんなところでバイオリン背負って何してるんですか。
  あなたこそバイオリン抱えて何してるんですか。
  わかりません。ただ、居ても立ってもいられなくて。
  わたしもです。気が付いたらここに来てしまっていたんです。
  2人は何も言わず、同時に同じ行動を開始した。
  何するんですか。
  弾いてみるんです。
  わたしもです。あなたは弾けるんですか。
  いいえ、弾いたことなくて。
  2人はケースを開けて、バイオリンを取り出した。
  持ち主の居なくなったふたつのバイオリンは、弦が飛んで、欠けたりヒビが入ったりしていたが、それでも原型を留めていた。地面にたどり着く瞬間まで、ぎゅっと抱き締めていたからだ。
  それ、ボロボロですね、どうしたんですか。
  あなたのも傷だらけですね、どうしたんですか。
  ・・・・・・・・・。
  ・・・・・・・・・。
  ・・・ねえ、あなたの大切な人は、何の曲弾いてたんですか。
  あなたの大切な人は。何の曲練習してたんですか。
  せーので言ってみましょうか。
  じゃあ、行きますよ、せーの、




  ニュルンベルクのマイスタージンガー。




  2人はくすくすと笑い出した。
  おんなじですね、何もかも。
  本当、おんなじですね、全部。
  肩を震わせて、か細い声で笑いながら、2人はポタポタと涙を落としていた。
  本当、バイオリンを愛してたんですね。
  本当、あのとっておきの景色を愛してたんですね。
  春雪、わたしも、愛してるよ、
  夏秋、わたしも、愛してるよ、
  四角いくすんだ白色の箱がそびえ立つ前で、壊れたバイオリンを持って、2人はいつまでも泣きながら笑い合っていた。















  十年後、山のふもとから見える景色は、ただ連なる箱ばかりになる。














  僕の家は山のふもとにあって、そこからは海がよく見える。
  水平線は峰より高く、視界を遮るものなんか何もない。
  いつの日か君を連れて来て、ずっと一緒に眺めていたい。
  僕だけのとっておきの景色。
  君と僕、ふたりだけのとっておきの景色。
  ずっとふたりで眺めていたい。

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