雪の降る季節の中で 二話
リョク作
第二話 吐血
「さてと、それじゃあ作りますか」
俺がエプロンを着て言うと、瀬奈が近づいてきた。
「何か手伝いましょうか?」
「いや、気にすんな。それより、砂夜のところで待っててくれ。
作り終わったら呼ぶから」
「はい、わかりました」
それだけ言って瀬奈は二階に上がっていった。
「よ〜し、はじめるかぁ!」
俺は材料を確認し、作り始めた。
* * *
「砂夜ちゃん……か……」
嫌いじゃないけど、砂夜ちゃんの島根君に対する気持ちを知っている
から、つい意識してしまう。
(砂夜ちゃんも気づいてるのかな? ……私の気持ち……)
気付かれていたら、それはそれで嫌だけど……。
私は複雑な心境の中、扉をノックした。
「はい?」
私がノックすると、砂夜ちゃんの声がした……って当然か……。
「えっと……沢野ですけど…………」
かなりぎこちなく言うと、扉がゆっくり開けられた。
「沢野先輩……どうしたんですか?」
「えっと、島根君が砂夜ちゃんの部屋で待っててくれって」
私が言うと砂夜ちゃんは、ため息を一つついて言った。
「兄さんったら……まぁ、とにかく入ってください」
砂夜ちゃんは笑顔で私を部屋に迎え入れてくれた。
「あ、はい。お邪魔します」
私は部屋に入って、座り込んだ。
部屋を見てみると、なんだか幼い感じがした。
いつもの砂夜からは想像できないものが机に置いてあったり
したのだ。結構古い感じがする人形が置かれていたりした。
「………………」
沈黙が続く。
不意に砂夜ちゃんが口を開いた。
「沢野先輩」
「? どうしたの」
私が聞くと、砂夜ちゃんは私の事をじっと見てから言い出した。
「沢野先輩って、好きな人……いますか?」
「え…………?」
いきなり何を言い出すのだろうか。一瞬目の前が真っ白になった。
「えっ、え〜と……」
私が何も言えずに困惑していると、砂夜ちゃんはもう一度聞いてきた。
「いるんですか?」
半ば睨みつける様な目で聞いてくる。
「いるよ」
私も意地を張ってしまったようで、少し口調が強くなっている。
「そうですか……」
砂夜ちゃんは視線を逸らして言った。
「それって……」
「砂夜ちゃんは?」
「え?」
私が砂夜ちゃんの言葉を遮るように口を開く。
「砂夜ちゃんはいないの? 好きな人。」
私は一体何を聞いているのだろうか。砂夜ちゃんの気持ちは知って
いるはずなのに。
きっと、私は安心したかったんだと思う。砂夜ちゃんが島根君を
好きじゃなければ、私は安心して島根君を好きでいられるから……
でも、それは意味の無いことだった。
なぜなら、砂夜ちゃんの答えは私の予想道理だったからだ。
「います」
「そう……なんだ」
本当に私は何がしたいのだろうか。意味の無い事ばかりやって。
私が自己嫌悪に陥っていると、砂夜ちゃんが聞いてきた。
「沢野先輩の好きな人って……」
できれば、その先は言わないでほしい。きっと私は、わかりやすい
反応をしてしまうと思うから。
「兄さん?」
「………………」
砂夜ちゃんに言われたことは間違っていない。そのせいで、私は
何も言えなかった。
「何も言わないんですか?」
「わ、私……は」
(島根君を愛しても、島根君に愛される資格なんて無い)
その言葉を言おうとしても、出てこなかった。何故そんなことを
言うのか、普通に考えたら理解できないと思う。
でも、私は島根君に愛されてはいけない。
何故なら、私は島根君を殺しかけてしまったことがあるから。
十二年前……私は島根君を突き飛ばしてしまったことがある。
そう、私と島根君は小学校が同じだった。
ある日の学校の帰り道。私は友人達と道路の近くでふざけていた。
そこは、かなり車のとおりが多く危険な場所だった。
その日は雨で、私は足をすべらせて転びそうになった時に島根君の
背中にぶつかってしまい、そのせいで島根君は道路の方に倒れていき、
大型トラックにはねられてしまったのだ。
死んでもおかしくない状況の中、島根君は奇跡的に回復した。
私はその日のことを忘れていないし、島根君に謝ろうともしたが、島根君
は次の日には引っ越してしまっていたのだ。
だから、高校で島根君に会ったときに私はどうしていいかわからず、
とにかく挨拶だけでもと思い挨拶をしたのだが、島根君は私に気
づいていなかったのか、私に笑顔で『初めまして』と返してきた。
彼は私に気付いていないのだろうか……時々不安になる。
「私は島根君に……」
「愛される資格なんてありませんよ」
「っ!?」
砂夜ちゃんが憎悪に満ちた顔で言いきった。
「兄さんを殺そうとした人が、兄さんの傍にいるだけでも許せないんです。
これ以上兄さんに近づかないでください」
砂夜ちゃんは知っていた。
「な、なんで……」
私が言いかけると、砂夜ちゃんは鼻で笑ってから口を開く。
「なんで知っているか……ですか? 呆れましたね。言わなければ、ばれない
とでも思っていたんですか? あんな大事故を忘れろとゆう方が無理な話
ですよ。自分の目の前で大事な兄が事故に遭う……わかりますか?
この気持ちが……。わかるわけ無いですよね、わかるなら
あんなことはしないはずです。兄さんは覚えてないみたいですけど、
この事を兄さんが知ったらなんて言うんでしょうね?」
何も言えない……ただ、自分の体が小刻みに震えているのがわかる。
「兄さんに言ってきましょうか?」
「や、やめて……」
「あなたにそんなことを言う権利があるんですか?」
「砂夜にも……ないでしょ」
砂夜を睨み返して言った。
「私は妹です。妹として兄さんを安全な位置に立たせるのは当然のことだと思いますよ」
「安全な位置って……」
「あなたが兄さんの傍にいる限り、兄さんの安全は私が守ります」
(何よ、それ……)
私は悔しくて、唇を噛んだ。
「島根君は子供じゃないわ。自分の安全くらい自分で守れるでしょう?」
「なら、なんで兄さんはあなたを友人として傍に置くんですか?
昔のことを覚えていないからですよ。兄さんは昔、病院で言っていました。
『俺をこんな目に遭わせた奴を許さない、絶対に同じ目に遭わせてやる』って。でも、兄さんは変わってしまった。今までほとんどの事に無関心でいい加減だった人がいつの間にか料理を習って、なんでも真面目に取り組むようになって……そして……昔のことも忘れていました……。
……全部……あなたのせいです。
だから、あなたが初めて家に来たときに、殺してやるって思いましたよ。
そしてそれと同時に兄さんの安全は私が守ると決めたんです」
「兄さん兄さんってあなたはそれしか言えないの?
他人より、まず自分のことを考えたらどうなのよ!」
私は怒鳴っていた。たぶん、悔しかったんだと思う。
砂夜は島根君の事を第一に考えて、私を殺してやると思っていた。
でも私は、島根君が忘れていることをいい事に、何も言わないで。
島根君の優しさに甘えて、自分では何の努力もしていない。
そして次の瞬間、砂夜が冷たく聞いてきた。
「何で私が兄さんの事ばかり考えているか、知りたいですか?」
「あ……あ……ああ」
言葉が出てこなかった。自分がどれだけ愚かな事を口に出してしまったのか。
今気付いたから……砂夜の答えは、私にとって最悪なものだった。
「私は、兄さんが好きですから」
砂夜は何の迷いもなく言った。
「兄妹……でしょう? あなた達は……」
「確かにそうですね。でも、兄妹だからといって好きになってはいけないとゆう法律はありませんよ」
「それはそうだけど……」
砂夜は島根君の事を本当に好きなんだ。
だから、迷いも無くあんなことを言える。
私はこの時点で負けている……。
島根君をごまかしている時点で私は…………。
「いつまでも兄さんをごまかせると思わないでください」
「え?」
「冬休みに入るまでに、兄さんに本当のことを打ち明ければ私は許します。
兄さんがどうするかは知りませんけど。もしも冬休みまでに兄さんに話さないのなら……私が兄さんに全て打ち明けます」
砂夜は淡々と続ける。
「それって……どっちにしても、島根君に……」
私が震えながら言うと、砂夜は私を睨みつけて言う。
「怖いですか? 兄さんに知られるのが」
「そ、それは……」
私が言いかけた時に、扉が開けられた。
いつもの私なら、何故開けられたのかわかる。
でも、今の私にはわからなかった。
彼の顔を見て、私は始めて気付いたのだ。
扉を開けて入ってきたのは、島根君だったとゆうことに。
「いつまでそんな話をしてるつもりだよ?」
「島根……君……?」
「兄さん……」
私と砂夜が島根君の方を見ると、島根君は笑って行った。
「飯。できたぜ」
島根君が笑って行ったのが余計に、心苦しかった。
気がつくと、私の目からは涙が零れ落ちていた。
* * *
「あ……あ……私……私は」
「瀬奈……」
俺が瀬奈の名前を呼ぶと、瀬奈はビクッと肩を震わせてから、
涙を流す自分に気付いたように落胆した。
俺が無言で瀬奈の方に手を伸ばすと瀬奈はそれを振り払った。
「あ……ご、ごめんなさいっ!」
瀬奈が階段を走って下りて行く。
「瀬奈!」
俺が瀬奈の名前を呼んで追いかけようとすると、砂夜に手を捉まれる。
「兄さん、行かないで!」
「砂夜」
泣きそうな顔で俺の方を見て訴えかけてくる砂夜。
「さっきの話、聞いてたんでしょ? だったら……」
「聞いてたけどさ、いいじゃないか別に……」
「え?」
何を言っているのかわからない。そんな事でも訴えかけてくるような目だ。
「どれをとってみても。全部、昔の事だから」
俺が言うと、砂夜は怒鳴る。
「だって、またあんな事が起こるかもかもしれないんだよ?
私は嫌だよ……もう、あんな兄さんの姿見たくないよ」
砂夜の気持ちはわかっているつもりだ、でも、大丈夫だとゆう確信もあった。
「大丈夫だ。砂夜は俺のたった一人の妹だろ?
兄貴を信じろよ……な?」
俺が微笑むと、砂夜の手から力がぬけていき、俺の手を離した。
俺は瀬奈の後を追う。あいつは家から出たりはしない。
ああゆう時の瀬奈の行く場所は……。
「うっ……く………」
扉の向こうから、瀬奈の声が聞こえる。
瀬奈がいるのは俺の家の風呂場だ。
「瀬奈」
「こないで。私は島根君を傷つけたから」
人の話を聞こうとしない瀬奈。
俺はため息をついてから、昔のことを話し始めた。
「まったく、昔から変わってないよな。泣くと風呂場に隠れるくせは」
「島根君、それって……」
瀬奈が落ち着いてきた感じがしたので、
俺はそこで本題に入ることにした。
「今まで黙ってたけどさ。俺、覚えてるんだ。
昔の事……。
小学校の時に遊んだ相手が、俺と同じ高校に通っている人物と
同じって事もな」
「遠まわしな言い方ですね……」
「じゃあ、単刀直入に言うぞ?」
俺が瀬奈に聞くが、瀬奈からの返事は無い。
そこで話を止めるわけにもいかないので、俺は
そのまま話を続けることにした。
「俺は瀬奈のことを恨んでないよ。砂夜が言ったように、
昔は恨んでたけどさ、今はどうでもいいんだ」
俺が言うと、瀬奈が震える声で俺に言う。
「気休めはやめて。はっきり言ってよ、今も恨んでいるって……
そうじゃないと、私はいつまでも島根君の優しさに甘えちゃうから」
瀬奈が苦しんでいるのが俺にはわかる。
俺が恨んでいると言えば、瀬奈は救われるのだろうか?
……違う。そんな事を言えば、瀬奈は自分を今まで以上に責めてしまうはずだ。瀬奈を助けられるかどうかはわからない。
しかし、俺の口は考えるより先に動いていた。
「砂夜が言ってただろ? 俺が変わったって。
あれさ、瀬奈のせいじゃないんだ」
「え?」
俺が言うと、扉の向こうから瀬奈の声がかすかに聞こえた。
俺は、話を続ける。
「俺が中二の時に両親が事故で死んじまってさ……。
その時から先輩だった人に、料理を習ったんだ。でも、あまりうまくいかなくて、やめようかと思った時があったんだ。
それで、それを先輩に言ったら頬引っ叩かれて、先輩が俺に言ったんだ。
『あなたは何かを本気でやったことが無い。
だから、なんでも簡単に投げ出せる。でも、そんな事をしていたら絶対に料理なんか上達しない。今言ったことは、料理だけじゃなくて、全ての事に言える事なんだ』って。そう言われてからさ、俺は自分が今までどれだけいいかげんで周りに迷惑をかけていたんだろうって考えた。
その時からなんだよ、俺が何でも真面目に取り組むようになったのって。
だから、俺が変わったのは瀬奈のせいじゃない。
それに、俺は変われてよかったと思ってるから」
「…………。少ししてからリビングに行きますから、
先に行っててくれませんか? 今は、酷い顔をしていると思うから」
瀬奈が扉越しに言ってくる。
「料理が冷めちまうぞ」
「大丈夫です。冷めちゃったら、島根君に温めてもらいますよ」
「そっか、わかった、待ってる」
俺は、リビングに向かって歩き出した。
「あ、兄さん」
俺がリビングに入ると、テーブルの前にある椅子に座っている砂夜が気付いたように俺の名前を呼んだ。
テーブルに置かれている肉じゃがを見ると、温かそうに湯気をたてていた。
「……自分で温めたのか?」
「はい、兄さんを待っていたら朝になってしまいますから」
笑って俺に言う砂夜。
「はは、そうか。ところで、砂夜」
俺が砂夜の名前を呼ぶと、砂夜が俺の方を見て返事をした。
「はい? 何ですか? 兄さん」
「いや、その……後でいいから、瀬奈に謝っておけよ。事故に遭った原因が瀬奈だっていうのが事実だとしても、あれは、言いすぎだ。心配してくれんのは嬉しいけどさ、そのために他人を傷つける事だけはやめてくれ……頼む」
俺が言うと、砂夜は暗い顔をしてから口を開く。
「わかりました。兄さんがそう言うのなら、私は沢野先輩を許します」
砂夜の受け答えを聞いて、俺は心の中でホッと安堵の息をもらした。
「そうか。それより、さっさと彼氏ぐらいもらって来たらどうだ?
俺の心配なんてしなくても大丈夫だからさ」
(そう、俺の心配なんか……しなくても……)
正直言って、今の俺は孤独とゆうものに慣れたかった。
誰の心配もしなくていい、そのかわりに、誰も俺の心配をしない。
精神的には、かなりキツイのかもしれない。でも、それが出来れば
誰も悲しまずにすむ。俺は、自分が原因で誰かに悲しまれるというのが、
ものすごく嫌いなんだ。
そんな事を考えていると、砂夜が突然口を開く。
いや、そんなに長い間は無かったのだろう。
俺には長く感じられただけだ。
「私は、もう決めていますから」
「何をだ?」
砂夜の言った言葉が理解出来なかった。
俺が聞き返すと、砂夜はため息をついてから言った。
「はぁ、鈍感もここまでくると一種の才能ですね」
なんか、もの凄く馬鹿にされた気分だ。
「どうゆう意味だよ?」
「わからなければ、それでいいんですよ」
・・・こいつ。
「わかったよ、無理にはきかねぇよ」
「そうですか」
「ああ」
はぁ、と俺がため息をつきながら椅子に座ると、砂夜が立ち上がった。
「どうした?」
「いえ、食べ終わったので食器を流しに持っていくだけですけど」
俺に聞かれた砂夜は両手で食器を持って俺に言った。
「ん、そうか」
「はい」
砂夜は食器を流しに持っていった後に、リビングの扉の前まで行く。
すると、扉は反対側からゆっくりと開けられた。
* * *
私の目の前でゆっくりと開けられた扉。
その先には、沢野先輩が立っていた。どうやら、先輩が扉を開けたらしい。
「あ、砂夜……ちゃん……」
「沢野先輩」
先輩を見た時に最初に浮かんだ感情は憎悪や怒りだった。
でも、感情に任せて動いたらさっきの二の舞だ。
「……さっきは、すいませんでした。先輩の事を恨んでないわけじゃありませんけど、兄さんが許している以上、私が意地をはっていても仕方ないので。
この件にはもう触れません。それじゃ、おやすみなさい」
私はそれだけ言って、沢野先輩の横を通って階段を上っていった。
これが限界だった。これ以上は何をしだすのか、自分でもわからないくらいに
私は怒りに支配されていた。
* * *
砂夜が瀬奈に謝る所を見て、俺は小さく安堵の息をもらした。
(まぁ、昔の問題は一段落ついたって感じだな)
しかし、扉の前に立ち尽くしている瀬奈は動こうとしないとゆうより、心ここに非ずって感じだ。
俺は立ち上がり、キッチンに向かった。
肉じゃがを温めようとしたのだ。しかし、鍋の中の肉じゃがは湯気をたてていた。……そういえば、さっき砂夜が温めた肉じゃがを食っていたな。
「………………」
途端に不安になり、肉じゃがの惨状を確かめる。
(……ふむ、外側の外見OK。中身の外見は、OK)
そして、一番不安なところを見ることになった。
「味」
俺はぼそりと呟いた。
あいつはよく、俺が作った料理までも台無しにしてくれる。
……もの凄く不安だ。
「男は度胸」
言ってみた……そんな簡単に度胸なんて持てるか! こんちくしょー
しかし、瀬奈で調べるわけにも行かないし。
「っ!」
俺は、意を決して味見する。
「おお! 大丈夫だ!」
奇跡に近い出来事に、若干感動しながら皿に移していった。
「瀬奈。飯食おうぜ」
俺が瀬奈に向かって言うと、瀬奈はハッとして答える。
「う、うん」
* * *
「はい」
そう言って、島根君は私の前に肉じゃがを置いた。
「とりあえず座れよ」
「う、うん」
砂夜との事があったせいなのか、もの凄く遠慮してしまう。
しかし、座らないわけにもいかないので、少し遠慮気味に座ってしまう。
「箸は割り箸だけど、いいよな?」
「うん、気にしないで」
そう言って、肉じゃがを口に運んだ。
何を言っていいのかわからないけど、もの凄く美味しい。
「どうだ?」
少し自信なさげに聞いてくる島根君。
「すごく美味しいよ」
「そっか」
それから食べる事に没頭する島根君。
(私も早く食べよう)
* * *
(自分でも良くできたよなぁ)
昔先輩に教えてもらったことがようやく出てきたらしい。
そんなことを考えていたら、不意に咳が出てきた。
「げほっごほっごほっ!」
俺の手が生ぬるい暖かさを感じた。
瞳を手に向けると、そこには赤い液体がべっとりと付いていた。
(血……か……)
どうしようか? このままでいるわけにもいかないし。かといって、瀬奈にこの血を見せるわけにはいかない。今ここで見せてしまえば、今まで隠してきた意味は無くなってしまう。
「瀬奈。俺ちょっと洗面所行ってくる」
「うん、わかった」
手に付着した血が見えないように洗面所に向かう。
「げほ、ごほっごほっ」
予想以上にひどい、まさかこんなに血を吐くなんて。自分でも驚いている。
流しても流しても、意味が無い。
「仕方ないか」
俺はそこらにあったタオルを持って口をおさえた。
「ごほっ。げほっごほっ」
タオルが赤く染まっていく。
(使い物にならないなこれは)
俺は咳が収まってきてから、先程使ったタオルをゴミ箱に放り込んだ。
「はぁ」
ため息を一つついてからリビングに戻っていく。
「あ、島根君」
「どうした? そんなところにしゃがみ込んで」
「あ、麦茶がこぼれていたんでどうしようかなぁ……と」
瀬奈が見ているところを見ると、確かに麦茶がこぼれていた。
「あ〜、雑巾持ってくる」
「わかった」
瀬奈の返事を聞いてから洗面所に向かう。
「え〜と、雑巾雑巾っと」
積まれている雑巾の中から一つ強引に引き抜いた。
「げっ!」
引き抜いた時に積まれていたタオルが床にバタバタと落ちていく。
(はぁ、後で片づけておくか)
そんなことを考えながらリビングに戻り、床を拭こうとすると、瀬奈が俺の持っていた雑巾を取り上げてきた。
「あ、おい」
「島根君は食べていていいですよ」
「はぁ、悪い」
瀬奈に謝ってから、俺は肉じゃがを食べることに専念した。
* * *
私は手に持った雑巾で床にこぼれた麦茶を拭く。
被害はそれほど大きくなく、拭いた後に気になるような箇所は無かった。
「それじゃあ私は雑巾を洗濯機に入れてくるね」
「ん、ああ。頼む」
私が洗面所に向かうと、何故かは知らないが、雑巾が散らばっていた。
(島根君大雑把な所があるからなぁ。片づけておいた方が良いかもしれない)
そう思って、手に持っていた雑巾を洗濯機に入れてから、散らばった雑巾を片づけ始めた。
片づけていると、穴の開いた一枚の雑巾を見つけた。
「う〜ん、もう使えないかもしれないなぁ」
しかし、私の一存では処理できないので、私は島根君に聞いてみることにした。
「島根君」
「どうした?」
「これ、どうする?」
島根君に穴の開いた雑巾を渡すと、彼は悩み出した。
「まだ使えると思ったんだが……捨てといてくれ」
「うん、わかった」
私は島根君から雑巾を受け取り、再び洗面所に向かった。
「えと、これでいいのかな? ……!」
ゴミ箱らしき物を見つけたので、それがゴミ箱なのかを確認した時に、
私の体は凍り付いた。
「何……これ……」
ゴミ箱の中には、血で真っ赤に染まったタオルが捨てられていたのだ。
見なければ良かった。真っ先にそう思った。
でも見てしまった。
恐る恐る手に持ってみると、まだ乾いていない。
(どうしたらいいの?)
こんな物を見てしまった以上いつも通りの顔をして島根君に会えるわけがない。
「……………」
声も出ない、あまりにもショックだったから。
島根君の物だと断定は出来ない。でも、島根君か砂夜のどちらかでしかないことも事実なのだ。
……帰ろう。これ以上ここにいたら、私はどうにかなってしまいそうだ。
「島根君」
リビングの扉を開けながら、私は彼に声を掛けた。
「どうした?」
「私、そろそろ帰りますね」
「ああ、そうか。送ってく。」
その言葉を聞いた瞬間に先程の、血だらけのタオルを思い出してしまった。
でも、その事を島根君に知られるわけにはいかない。
私は、整理のつかない心を押さえ込みながら言った。
「大丈夫ですから」
「でも、やっぱり心配だし……」
彼はどうして簡単にそんな言葉が出てくるのだろうか?
私が少し訝しげな目をしていると、島根君はカーテンをめくりガラス越しに写る外の状態を見ながら言った。
「ほら、雪も降ってるしさ」
外見ると、あたり一面が真っ白になっていた。
月の光を浴びて、所々光っているようにも見える。
「それに、もう暗いし。送らないと、また陽太にいろいろと言われそうだ」
「え、師名君?」
なぜ、師名君の名前がいきなり出てくるのだろうか?
「そ、沢野を今度飯に誘ってやれとか、俺がやろうとしている事をあいつに言われるんだ」
師名君ったら……もう。確かに、島根君の事で相談に乗ってもらってはいるけど、なにもそこまでしなくてもいいのに。
(はぁ、罪滅ぼしってことに勝手しといて、送ってもらおう)
そう考えた私は彼の方を向いて言った。
「わかりました。今回は送ってもらいます」
「おう」
そして、二人で玄関に向かう。
靴を履いて外に出ると、意外と寒かった。
島根君が傘を差すと、私の方に向けてきた。どうやら入れとゆう意味らしい。
私は島根君が差す傘の中に入った。
夜道の雪に二人だけの足跡が残る。
「寒くないか?」
「少しだけ。でも、大丈夫」
「無理するな」
「あ……」
島根君は自分が着ていたジャケットを私の肩にかけた。
(温かい)
こうしていると、彼に抱かれているような感じがして恥ずかしかったが、
私はそれを返そうとは思わなかった。
私は、島根君のジャケットに身を包みながら、歩いていく。
こうしていられるだけでも幸に感じてしまう。
しかし、幸福な時間とゆうのは短いもので、すぐに家まで着いてしまった。
私は彼にジャケットを返して、傘の中から出て行った。
「今日はありがとうございました」
「気にすんな。じゃ、また明日」
「うん、じゃあね」
始めは笑顔で手を振っていたが、やがてその顔は暗い顔に変わっていく。
理由はもちろんあのタオルのせいだ。
真っ赤に染まったタオル……。
あの赤い液体はもちろん血だ。
それ以外に何があるの? 絵の具? そんな匂いはしなかった。
島根君の体に起こっていることなのだろうか?
それとも、砂夜に起こっていること?
いや、砂夜はありえないと思う。タオルは乾いていなかったから、今日中に捨てられたタオルだ。しかも、手に持ったときに血が手に付くぐらいとゆうことは、確実に私が来てから捨てられた物……。
そう考えたら、あの血を吐いた人は一人しかいない。
島根君……彼は何かを私に隠しているはず。
そう考えれば考えるほどに、不安と悲しみの二つが波のように押し寄せてくる。
もの凄く怖い。
今日の一件で、彼がもの凄く遠くに行ってしまうような気がしたから。
これはもしかして、師名君の態度と関係がるのだろうか?
彼はいつも、島根君の話になると一度悲しそうな顔をするから。
(ねぇ、島根君。あなたは一体何を隠しているの? 私が知ってはいけない事?
師名君……私はどうしたら島根君の事がわかるのかな?
わからないよ……島根君の考えている事が)
気付くと、涙が出ていた。
彼のことを知りたいと思っているのに、なにもわからないから。
(私は一体どうしたらいいの? 誰か……教えてよ……)
「さてと、それじゃあ作りますか」
俺がエプロンを着て言うと、瀬奈が近づいてきた。
「何か手伝いましょうか?」
「いや、気にすんな。それより、砂夜のところで待っててくれ。
作り終わったら呼ぶから」
「はい、わかりました」
それだけ言って瀬奈は二階に上がっていった。
「よ〜し、はじめるかぁ!」
俺は材料を確認し、作り始めた。
* * *
「砂夜ちゃん……か……」
嫌いじゃないけど、砂夜ちゃんの島根君に対する気持ちを知っている
から、つい意識してしまう。
(砂夜ちゃんも気づいてるのかな? ……私の気持ち……)
気付かれていたら、それはそれで嫌だけど……。
私は複雑な心境の中、扉をノックした。
「はい?」
私がノックすると、砂夜ちゃんの声がした……って当然か……。
「えっと……沢野ですけど…………」
かなりぎこちなく言うと、扉がゆっくり開けられた。
「沢野先輩……どうしたんですか?」
「えっと、島根君が砂夜ちゃんの部屋で待っててくれって」
私が言うと砂夜ちゃんは、ため息を一つついて言った。
「兄さんったら……まぁ、とにかく入ってください」
砂夜ちゃんは笑顔で私を部屋に迎え入れてくれた。
「あ、はい。お邪魔します」
私は部屋に入って、座り込んだ。
部屋を見てみると、なんだか幼い感じがした。
いつもの砂夜からは想像できないものが机に置いてあったり
したのだ。結構古い感じがする人形が置かれていたりした。
「………………」
沈黙が続く。
不意に砂夜ちゃんが口を開いた。
「沢野先輩」
「? どうしたの」
私が聞くと、砂夜ちゃんは私の事をじっと見てから言い出した。
「沢野先輩って、好きな人……いますか?」
「え…………?」
いきなり何を言い出すのだろうか。一瞬目の前が真っ白になった。
「えっ、え〜と……」
私が何も言えずに困惑していると、砂夜ちゃんはもう一度聞いてきた。
「いるんですか?」
半ば睨みつける様な目で聞いてくる。
「いるよ」
私も意地を張ってしまったようで、少し口調が強くなっている。
「そうですか……」
砂夜ちゃんは視線を逸らして言った。
「それって……」
「砂夜ちゃんは?」
「え?」
私が砂夜ちゃんの言葉を遮るように口を開く。
「砂夜ちゃんはいないの? 好きな人。」
私は一体何を聞いているのだろうか。砂夜ちゃんの気持ちは知って
いるはずなのに。
きっと、私は安心したかったんだと思う。砂夜ちゃんが島根君を
好きじゃなければ、私は安心して島根君を好きでいられるから……
でも、それは意味の無いことだった。
なぜなら、砂夜ちゃんの答えは私の予想道理だったからだ。
「います」
「そう……なんだ」
本当に私は何がしたいのだろうか。意味の無い事ばかりやって。
私が自己嫌悪に陥っていると、砂夜ちゃんが聞いてきた。
「沢野先輩の好きな人って……」
できれば、その先は言わないでほしい。きっと私は、わかりやすい
反応をしてしまうと思うから。
「兄さん?」
「………………」
砂夜ちゃんに言われたことは間違っていない。そのせいで、私は
何も言えなかった。
「何も言わないんですか?」
「わ、私……は」
(島根君を愛しても、島根君に愛される資格なんて無い)
その言葉を言おうとしても、出てこなかった。何故そんなことを
言うのか、普通に考えたら理解できないと思う。
でも、私は島根君に愛されてはいけない。
何故なら、私は島根君を殺しかけてしまったことがあるから。
十二年前……私は島根君を突き飛ばしてしまったことがある。
そう、私と島根君は小学校が同じだった。
ある日の学校の帰り道。私は友人達と道路の近くでふざけていた。
そこは、かなり車のとおりが多く危険な場所だった。
その日は雨で、私は足をすべらせて転びそうになった時に島根君の
背中にぶつかってしまい、そのせいで島根君は道路の方に倒れていき、
大型トラックにはねられてしまったのだ。
死んでもおかしくない状況の中、島根君は奇跡的に回復した。
私はその日のことを忘れていないし、島根君に謝ろうともしたが、島根君
は次の日には引っ越してしまっていたのだ。
だから、高校で島根君に会ったときに私はどうしていいかわからず、
とにかく挨拶だけでもと思い挨拶をしたのだが、島根君は私に気
づいていなかったのか、私に笑顔で『初めまして』と返してきた。
彼は私に気付いていないのだろうか……時々不安になる。
「私は島根君に……」
「愛される資格なんてありませんよ」
「っ!?」
砂夜ちゃんが憎悪に満ちた顔で言いきった。
「兄さんを殺そうとした人が、兄さんの傍にいるだけでも許せないんです。
これ以上兄さんに近づかないでください」
砂夜ちゃんは知っていた。
「な、なんで……」
私が言いかけると、砂夜ちゃんは鼻で笑ってから口を開く。
「なんで知っているか……ですか? 呆れましたね。言わなければ、ばれない
とでも思っていたんですか? あんな大事故を忘れろとゆう方が無理な話
ですよ。自分の目の前で大事な兄が事故に遭う……わかりますか?
この気持ちが……。わかるわけ無いですよね、わかるなら
あんなことはしないはずです。兄さんは覚えてないみたいですけど、
この事を兄さんが知ったらなんて言うんでしょうね?」
何も言えない……ただ、自分の体が小刻みに震えているのがわかる。
「兄さんに言ってきましょうか?」
「や、やめて……」
「あなたにそんなことを言う権利があるんですか?」
「砂夜にも……ないでしょ」
砂夜を睨み返して言った。
「私は妹です。妹として兄さんを安全な位置に立たせるのは当然のことだと思いますよ」
「安全な位置って……」
「あなたが兄さんの傍にいる限り、兄さんの安全は私が守ります」
(何よ、それ……)
私は悔しくて、唇を噛んだ。
「島根君は子供じゃないわ。自分の安全くらい自分で守れるでしょう?」
「なら、なんで兄さんはあなたを友人として傍に置くんですか?
昔のことを覚えていないからですよ。兄さんは昔、病院で言っていました。
『俺をこんな目に遭わせた奴を許さない、絶対に同じ目に遭わせてやる』って。でも、兄さんは変わってしまった。今までほとんどの事に無関心でいい加減だった人がいつの間にか料理を習って、なんでも真面目に取り組むようになって……そして……昔のことも忘れていました……。
……全部……あなたのせいです。
だから、あなたが初めて家に来たときに、殺してやるって思いましたよ。
そしてそれと同時に兄さんの安全は私が守ると決めたんです」
「兄さん兄さんってあなたはそれしか言えないの?
他人より、まず自分のことを考えたらどうなのよ!」
私は怒鳴っていた。たぶん、悔しかったんだと思う。
砂夜は島根君の事を第一に考えて、私を殺してやると思っていた。
でも私は、島根君が忘れていることをいい事に、何も言わないで。
島根君の優しさに甘えて、自分では何の努力もしていない。
そして次の瞬間、砂夜が冷たく聞いてきた。
「何で私が兄さんの事ばかり考えているか、知りたいですか?」
「あ……あ……ああ」
言葉が出てこなかった。自分がどれだけ愚かな事を口に出してしまったのか。
今気付いたから……砂夜の答えは、私にとって最悪なものだった。
「私は、兄さんが好きですから」
砂夜は何の迷いもなく言った。
「兄妹……でしょう? あなた達は……」
「確かにそうですね。でも、兄妹だからといって好きになってはいけないとゆう法律はありませんよ」
「それはそうだけど……」
砂夜は島根君の事を本当に好きなんだ。
だから、迷いも無くあんなことを言える。
私はこの時点で負けている……。
島根君をごまかしている時点で私は…………。
「いつまでも兄さんをごまかせると思わないでください」
「え?」
「冬休みに入るまでに、兄さんに本当のことを打ち明ければ私は許します。
兄さんがどうするかは知りませんけど。もしも冬休みまでに兄さんに話さないのなら……私が兄さんに全て打ち明けます」
砂夜は淡々と続ける。
「それって……どっちにしても、島根君に……」
私が震えながら言うと、砂夜は私を睨みつけて言う。
「怖いですか? 兄さんに知られるのが」
「そ、それは……」
私が言いかけた時に、扉が開けられた。
いつもの私なら、何故開けられたのかわかる。
でも、今の私にはわからなかった。
彼の顔を見て、私は始めて気付いたのだ。
扉を開けて入ってきたのは、島根君だったとゆうことに。
「いつまでそんな話をしてるつもりだよ?」
「島根……君……?」
「兄さん……」
私と砂夜が島根君の方を見ると、島根君は笑って行った。
「飯。できたぜ」
島根君が笑って行ったのが余計に、心苦しかった。
気がつくと、私の目からは涙が零れ落ちていた。
* * *
「あ……あ……私……私は」
「瀬奈……」
俺が瀬奈の名前を呼ぶと、瀬奈はビクッと肩を震わせてから、
涙を流す自分に気付いたように落胆した。
俺が無言で瀬奈の方に手を伸ばすと瀬奈はそれを振り払った。
「あ……ご、ごめんなさいっ!」
瀬奈が階段を走って下りて行く。
「瀬奈!」
俺が瀬奈の名前を呼んで追いかけようとすると、砂夜に手を捉まれる。
「兄さん、行かないで!」
「砂夜」
泣きそうな顔で俺の方を見て訴えかけてくる砂夜。
「さっきの話、聞いてたんでしょ? だったら……」
「聞いてたけどさ、いいじゃないか別に……」
「え?」
何を言っているのかわからない。そんな事でも訴えかけてくるような目だ。
「どれをとってみても。全部、昔の事だから」
俺が言うと、砂夜は怒鳴る。
「だって、またあんな事が起こるかもかもしれないんだよ?
私は嫌だよ……もう、あんな兄さんの姿見たくないよ」
砂夜の気持ちはわかっているつもりだ、でも、大丈夫だとゆう確信もあった。
「大丈夫だ。砂夜は俺のたった一人の妹だろ?
兄貴を信じろよ……な?」
俺が微笑むと、砂夜の手から力がぬけていき、俺の手を離した。
俺は瀬奈の後を追う。あいつは家から出たりはしない。
ああゆう時の瀬奈の行く場所は……。
「うっ……く………」
扉の向こうから、瀬奈の声が聞こえる。
瀬奈がいるのは俺の家の風呂場だ。
「瀬奈」
「こないで。私は島根君を傷つけたから」
人の話を聞こうとしない瀬奈。
俺はため息をついてから、昔のことを話し始めた。
「まったく、昔から変わってないよな。泣くと風呂場に隠れるくせは」
「島根君、それって……」
瀬奈が落ち着いてきた感じがしたので、
俺はそこで本題に入ることにした。
「今まで黙ってたけどさ。俺、覚えてるんだ。
昔の事……。
小学校の時に遊んだ相手が、俺と同じ高校に通っている人物と
同じって事もな」
「遠まわしな言い方ですね……」
「じゃあ、単刀直入に言うぞ?」
俺が瀬奈に聞くが、瀬奈からの返事は無い。
そこで話を止めるわけにもいかないので、俺は
そのまま話を続けることにした。
「俺は瀬奈のことを恨んでないよ。砂夜が言ったように、
昔は恨んでたけどさ、今はどうでもいいんだ」
俺が言うと、瀬奈が震える声で俺に言う。
「気休めはやめて。はっきり言ってよ、今も恨んでいるって……
そうじゃないと、私はいつまでも島根君の優しさに甘えちゃうから」
瀬奈が苦しんでいるのが俺にはわかる。
俺が恨んでいると言えば、瀬奈は救われるのだろうか?
……違う。そんな事を言えば、瀬奈は自分を今まで以上に責めてしまうはずだ。瀬奈を助けられるかどうかはわからない。
しかし、俺の口は考えるより先に動いていた。
「砂夜が言ってただろ? 俺が変わったって。
あれさ、瀬奈のせいじゃないんだ」
「え?」
俺が言うと、扉の向こうから瀬奈の声がかすかに聞こえた。
俺は、話を続ける。
「俺が中二の時に両親が事故で死んじまってさ……。
その時から先輩だった人に、料理を習ったんだ。でも、あまりうまくいかなくて、やめようかと思った時があったんだ。
それで、それを先輩に言ったら頬引っ叩かれて、先輩が俺に言ったんだ。
『あなたは何かを本気でやったことが無い。
だから、なんでも簡単に投げ出せる。でも、そんな事をしていたら絶対に料理なんか上達しない。今言ったことは、料理だけじゃなくて、全ての事に言える事なんだ』って。そう言われてからさ、俺は自分が今までどれだけいいかげんで周りに迷惑をかけていたんだろうって考えた。
その時からなんだよ、俺が何でも真面目に取り組むようになったのって。
だから、俺が変わったのは瀬奈のせいじゃない。
それに、俺は変われてよかったと思ってるから」
「…………。少ししてからリビングに行きますから、
先に行っててくれませんか? 今は、酷い顔をしていると思うから」
瀬奈が扉越しに言ってくる。
「料理が冷めちまうぞ」
「大丈夫です。冷めちゃったら、島根君に温めてもらいますよ」
「そっか、わかった、待ってる」
俺は、リビングに向かって歩き出した。
「あ、兄さん」
俺がリビングに入ると、テーブルの前にある椅子に座っている砂夜が気付いたように俺の名前を呼んだ。
テーブルに置かれている肉じゃがを見ると、温かそうに湯気をたてていた。
「……自分で温めたのか?」
「はい、兄さんを待っていたら朝になってしまいますから」
笑って俺に言う砂夜。
「はは、そうか。ところで、砂夜」
俺が砂夜の名前を呼ぶと、砂夜が俺の方を見て返事をした。
「はい? 何ですか? 兄さん」
「いや、その……後でいいから、瀬奈に謝っておけよ。事故に遭った原因が瀬奈だっていうのが事実だとしても、あれは、言いすぎだ。心配してくれんのは嬉しいけどさ、そのために他人を傷つける事だけはやめてくれ……頼む」
俺が言うと、砂夜は暗い顔をしてから口を開く。
「わかりました。兄さんがそう言うのなら、私は沢野先輩を許します」
砂夜の受け答えを聞いて、俺は心の中でホッと安堵の息をもらした。
「そうか。それより、さっさと彼氏ぐらいもらって来たらどうだ?
俺の心配なんてしなくても大丈夫だからさ」
(そう、俺の心配なんか……しなくても……)
正直言って、今の俺は孤独とゆうものに慣れたかった。
誰の心配もしなくていい、そのかわりに、誰も俺の心配をしない。
精神的には、かなりキツイのかもしれない。でも、それが出来れば
誰も悲しまずにすむ。俺は、自分が原因で誰かに悲しまれるというのが、
ものすごく嫌いなんだ。
そんな事を考えていると、砂夜が突然口を開く。
いや、そんなに長い間は無かったのだろう。
俺には長く感じられただけだ。
「私は、もう決めていますから」
「何をだ?」
砂夜の言った言葉が理解出来なかった。
俺が聞き返すと、砂夜はため息をついてから言った。
「はぁ、鈍感もここまでくると一種の才能ですね」
なんか、もの凄く馬鹿にされた気分だ。
「どうゆう意味だよ?」
「わからなければ、それでいいんですよ」
・・・こいつ。
「わかったよ、無理にはきかねぇよ」
「そうですか」
「ああ」
はぁ、と俺がため息をつきながら椅子に座ると、砂夜が立ち上がった。
「どうした?」
「いえ、食べ終わったので食器を流しに持っていくだけですけど」
俺に聞かれた砂夜は両手で食器を持って俺に言った。
「ん、そうか」
「はい」
砂夜は食器を流しに持っていった後に、リビングの扉の前まで行く。
すると、扉は反対側からゆっくりと開けられた。
* * *
私の目の前でゆっくりと開けられた扉。
その先には、沢野先輩が立っていた。どうやら、先輩が扉を開けたらしい。
「あ、砂夜……ちゃん……」
「沢野先輩」
先輩を見た時に最初に浮かんだ感情は憎悪や怒りだった。
でも、感情に任せて動いたらさっきの二の舞だ。
「……さっきは、すいませんでした。先輩の事を恨んでないわけじゃありませんけど、兄さんが許している以上、私が意地をはっていても仕方ないので。
この件にはもう触れません。それじゃ、おやすみなさい」
私はそれだけ言って、沢野先輩の横を通って階段を上っていった。
これが限界だった。これ以上は何をしだすのか、自分でもわからないくらいに
私は怒りに支配されていた。
* * *
砂夜が瀬奈に謝る所を見て、俺は小さく安堵の息をもらした。
(まぁ、昔の問題は一段落ついたって感じだな)
しかし、扉の前に立ち尽くしている瀬奈は動こうとしないとゆうより、心ここに非ずって感じだ。
俺は立ち上がり、キッチンに向かった。
肉じゃがを温めようとしたのだ。しかし、鍋の中の肉じゃがは湯気をたてていた。……そういえば、さっき砂夜が温めた肉じゃがを食っていたな。
「………………」
途端に不安になり、肉じゃがの惨状を確かめる。
(……ふむ、外側の外見OK。中身の外見は、OK)
そして、一番不安なところを見ることになった。
「味」
俺はぼそりと呟いた。
あいつはよく、俺が作った料理までも台無しにしてくれる。
……もの凄く不安だ。
「男は度胸」
言ってみた……そんな簡単に度胸なんて持てるか! こんちくしょー
しかし、瀬奈で調べるわけにも行かないし。
「っ!」
俺は、意を決して味見する。
「おお! 大丈夫だ!」
奇跡に近い出来事に、若干感動しながら皿に移していった。
「瀬奈。飯食おうぜ」
俺が瀬奈に向かって言うと、瀬奈はハッとして答える。
「う、うん」
* * *
「はい」
そう言って、島根君は私の前に肉じゃがを置いた。
「とりあえず座れよ」
「う、うん」
砂夜との事があったせいなのか、もの凄く遠慮してしまう。
しかし、座らないわけにもいかないので、少し遠慮気味に座ってしまう。
「箸は割り箸だけど、いいよな?」
「うん、気にしないで」
そう言って、肉じゃがを口に運んだ。
何を言っていいのかわからないけど、もの凄く美味しい。
「どうだ?」
少し自信なさげに聞いてくる島根君。
「すごく美味しいよ」
「そっか」
それから食べる事に没頭する島根君。
(私も早く食べよう)
* * *
(自分でも良くできたよなぁ)
昔先輩に教えてもらったことがようやく出てきたらしい。
そんなことを考えていたら、不意に咳が出てきた。
「げほっごほっごほっ!」
俺の手が生ぬるい暖かさを感じた。
瞳を手に向けると、そこには赤い液体がべっとりと付いていた。
(血……か……)
どうしようか? このままでいるわけにもいかないし。かといって、瀬奈にこの血を見せるわけにはいかない。今ここで見せてしまえば、今まで隠してきた意味は無くなってしまう。
「瀬奈。俺ちょっと洗面所行ってくる」
「うん、わかった」
手に付着した血が見えないように洗面所に向かう。
「げほ、ごほっごほっ」
予想以上にひどい、まさかこんなに血を吐くなんて。自分でも驚いている。
流しても流しても、意味が無い。
「仕方ないか」
俺はそこらにあったタオルを持って口をおさえた。
「ごほっ。げほっごほっ」
タオルが赤く染まっていく。
(使い物にならないなこれは)
俺は咳が収まってきてから、先程使ったタオルをゴミ箱に放り込んだ。
「はぁ」
ため息を一つついてからリビングに戻っていく。
「あ、島根君」
「どうした? そんなところにしゃがみ込んで」
「あ、麦茶がこぼれていたんでどうしようかなぁ……と」
瀬奈が見ているところを見ると、確かに麦茶がこぼれていた。
「あ〜、雑巾持ってくる」
「わかった」
瀬奈の返事を聞いてから洗面所に向かう。
「え〜と、雑巾雑巾っと」
積まれている雑巾の中から一つ強引に引き抜いた。
「げっ!」
引き抜いた時に積まれていたタオルが床にバタバタと落ちていく。
(はぁ、後で片づけておくか)
そんなことを考えながらリビングに戻り、床を拭こうとすると、瀬奈が俺の持っていた雑巾を取り上げてきた。
「あ、おい」
「島根君は食べていていいですよ」
「はぁ、悪い」
瀬奈に謝ってから、俺は肉じゃがを食べることに専念した。
* * *
私は手に持った雑巾で床にこぼれた麦茶を拭く。
被害はそれほど大きくなく、拭いた後に気になるような箇所は無かった。
「それじゃあ私は雑巾を洗濯機に入れてくるね」
「ん、ああ。頼む」
私が洗面所に向かうと、何故かは知らないが、雑巾が散らばっていた。
(島根君大雑把な所があるからなぁ。片づけておいた方が良いかもしれない)
そう思って、手に持っていた雑巾を洗濯機に入れてから、散らばった雑巾を片づけ始めた。
片づけていると、穴の開いた一枚の雑巾を見つけた。
「う〜ん、もう使えないかもしれないなぁ」
しかし、私の一存では処理できないので、私は島根君に聞いてみることにした。
「島根君」
「どうした?」
「これ、どうする?」
島根君に穴の開いた雑巾を渡すと、彼は悩み出した。
「まだ使えると思ったんだが……捨てといてくれ」
「うん、わかった」
私は島根君から雑巾を受け取り、再び洗面所に向かった。
「えと、これでいいのかな? ……!」
ゴミ箱らしき物を見つけたので、それがゴミ箱なのかを確認した時に、
私の体は凍り付いた。
「何……これ……」
ゴミ箱の中には、血で真っ赤に染まったタオルが捨てられていたのだ。
見なければ良かった。真っ先にそう思った。
でも見てしまった。
恐る恐る手に持ってみると、まだ乾いていない。
(どうしたらいいの?)
こんな物を見てしまった以上いつも通りの顔をして島根君に会えるわけがない。
「……………」
声も出ない、あまりにもショックだったから。
島根君の物だと断定は出来ない。でも、島根君か砂夜のどちらかでしかないことも事実なのだ。
……帰ろう。これ以上ここにいたら、私はどうにかなってしまいそうだ。
「島根君」
リビングの扉を開けながら、私は彼に声を掛けた。
「どうした?」
「私、そろそろ帰りますね」
「ああ、そうか。送ってく。」
その言葉を聞いた瞬間に先程の、血だらけのタオルを思い出してしまった。
でも、その事を島根君に知られるわけにはいかない。
私は、整理のつかない心を押さえ込みながら言った。
「大丈夫ですから」
「でも、やっぱり心配だし……」
彼はどうして簡単にそんな言葉が出てくるのだろうか?
私が少し訝しげな目をしていると、島根君はカーテンをめくりガラス越しに写る外の状態を見ながら言った。
「ほら、雪も降ってるしさ」
外見ると、あたり一面が真っ白になっていた。
月の光を浴びて、所々光っているようにも見える。
「それに、もう暗いし。送らないと、また陽太にいろいろと言われそうだ」
「え、師名君?」
なぜ、師名君の名前がいきなり出てくるのだろうか?
「そ、沢野を今度飯に誘ってやれとか、俺がやろうとしている事をあいつに言われるんだ」
師名君ったら……もう。確かに、島根君の事で相談に乗ってもらってはいるけど、なにもそこまでしなくてもいいのに。
(はぁ、罪滅ぼしってことに勝手しといて、送ってもらおう)
そう考えた私は彼の方を向いて言った。
「わかりました。今回は送ってもらいます」
「おう」
そして、二人で玄関に向かう。
靴を履いて外に出ると、意外と寒かった。
島根君が傘を差すと、私の方に向けてきた。どうやら入れとゆう意味らしい。
私は島根君が差す傘の中に入った。
夜道の雪に二人だけの足跡が残る。
「寒くないか?」
「少しだけ。でも、大丈夫」
「無理するな」
「あ……」
島根君は自分が着ていたジャケットを私の肩にかけた。
(温かい)
こうしていると、彼に抱かれているような感じがして恥ずかしかったが、
私はそれを返そうとは思わなかった。
私は、島根君のジャケットに身を包みながら、歩いていく。
こうしていられるだけでも幸に感じてしまう。
しかし、幸福な時間とゆうのは短いもので、すぐに家まで着いてしまった。
私は彼にジャケットを返して、傘の中から出て行った。
「今日はありがとうございました」
「気にすんな。じゃ、また明日」
「うん、じゃあね」
始めは笑顔で手を振っていたが、やがてその顔は暗い顔に変わっていく。
理由はもちろんあのタオルのせいだ。
真っ赤に染まったタオル……。
あの赤い液体はもちろん血だ。
それ以外に何があるの? 絵の具? そんな匂いはしなかった。
島根君の体に起こっていることなのだろうか?
それとも、砂夜に起こっていること?
いや、砂夜はありえないと思う。タオルは乾いていなかったから、今日中に捨てられたタオルだ。しかも、手に持ったときに血が手に付くぐらいとゆうことは、確実に私が来てから捨てられた物……。
そう考えたら、あの血を吐いた人は一人しかいない。
島根君……彼は何かを私に隠しているはず。
そう考えれば考えるほどに、不安と悲しみの二つが波のように押し寄せてくる。
もの凄く怖い。
今日の一件で、彼がもの凄く遠くに行ってしまうような気がしたから。
これはもしかして、師名君の態度と関係がるのだろうか?
彼はいつも、島根君の話になると一度悲しそうな顔をするから。
(ねぇ、島根君。あなたは一体何を隠しているの? 私が知ってはいけない事?
師名君……私はどうしたら島根君の事がわかるのかな?
わからないよ……島根君の考えている事が)
気付くと、涙が出ていた。
彼のことを知りたいと思っているのに、なにもわからないから。
(私は一体どうしたらいいの? 誰か……教えてよ……)